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龍の溜息と泥の領地


 車輪が、粘りつくような音を立てて泥を噛んだ。


 ガタン、と大きく揺れた衝撃に、僕は思わず座席を掴む。馬車の進みは、もはや「走行」と呼べるものではなかった。巨大な獣が泥沼に足を取られ、必死に脚を動かしているような、苦悶に満ちた振動が続く。


「……ここが、シュヴァンプ領ですか」


 窓の外は、白濁とした深い霧――『龍の溜息(ドラゴンス・サフ)』に覆われていた。

 湿り気を帯びた重たい空気が窓の隙間から忍び込み、肺の奥をじわりと湿らせる。ドナール公爵邸の、あの乾燥して澄んだ空気とは正反対の、「停滞」の匂いがした。


「左様でございます、フリド様。……いや、見ての通りですな。道を探すより、マシな泥を探す方が早いくらいだ」


 御者台から、ガルムの乾いた声が響く。

 かつてドナール家の末端兵士だった彼は、慣れた手つきで馬を操りながらも、その背中には隠しきれない疲弊が張り付いていた。彼にとって、この地への随行は事実上の首宣告に近いのだろう。


 窓の外に目を向ければ、見渡す限り泥濘が広がる湿地帯が続いていた。

 ぬかるんだ地面と、立ち枯れた木々。その光景を見ているうちに、ふと、遠い前世の記憶が脳裏をよぎった。


 かつて、僕は現代日本でごく普通の社会人として生きていた。学生時代の成績も中程度、物事への関心もそれなり。歴史の知識だって、テストのために詰め込んだ程度で、決して得意な方ではなかった。

 ただ、一つだけ例外があった。戦国時代という、血と野望が渦巻く時代に対してだけは、人一倍、熱い好奇心を抱いていたのだ。教科書やメディアを通じて知るその時代は、あまりにドラマチックで、僕の心をワクワクさせて止まなかった。だからこそ、断片的ながらも、その知識だけは鮮明に、強烈な残像として残っている。


 例えば、徳川家康による利根川の東遷の計画。

 武田信玄が築いた、荒れ狂う川を制御するための信玄堤。

 加藤清正が、戦の後の土地を豊かなものにするために施した治水技術。


 これらは単なる歴史的事実ではない。自然の猛威を、人の知恵によって制御し、文明を築き上げた、いわば「生存のための技術」の記録だ。


 もし、この見渡す限りの湿地を、かつての先人たちのように、知恵と技術によって作り変えることができたとしたら。

 この過酷な運命を変える鍵が、僕の頭の中にある「うろ覚えの知識」に隠されているのだとしたら――。


 絶望の中に、小さな、けれど熱い期待が灯る。


 やがて、馬車が何かに突き当たるような感覚とともに止まった。


「着きましたぞ。……我らが、新たな『城』でございます」


 ガルムの皮肉めいた言葉に促され、車外へ踏み出す。

 一歩ごとに、靴が泥に数センチ沈み込み、「グチャッ」という不快な音が鼓膜を叩く。


 目の前に現れたのは、威厳ある館でも、整えられた役所でもなかった。

 湿った霧の中にぼんやりと浮かび上がる、朽ちかけた「影」だ。


 古びた石造りの基礎の上に、年季の入った木材が申し訳程度に組み上げられている。だが、その木材の多くは湿気で黒ずみ、表面には白や緑の菌類が、まるで皮膚病のように広がっていた。


「…………っ」


 後ろに控えていたリフが、喉の奥で短い悲鳴を飲み込むのが分かった。

 彼女は両手で自らの口を覆い、震える瞳でその建物を凝視している。


 家政を担う彼女の目には、この惨状が単なる「古さ」ではなく、戦うべき「敵」の巣窟に見えているはずだ。

 拭いても落ちないであろう壁の黒カビ。一晩で衣類を台無しにするであろう湿気。そして、煮炊きどころか立ち入るのさえ躊躇われる、腐敗した泥の臭い。


「リフ、大丈夫かい?」


 僕が声をかけると、彼女は青ざめた顔をゆっくりとこちらに向けた。


「……フリド様。……わたくし、ここをどうやって『家』と呼べばよいのか……見当もつきません。まず、何から……いえ、どこから触れば、汚れが落ちるのかすら……」


 彼女の絞り出すような声には、不満よりも「家政のプロとしての敗北感」が滲んでいた。

 ドナールの名を剥奪されたとはいえ、公爵家育ちの僕を、こんな汚物の中に放り込む。その事実が、彼女の誇りをズタズタに引き裂いているようだった。


 屋敷の構造そのものが、常に「沈み込み、崩壊しようとしている」ような、不穏な軋み声を上げている。

 

 だが、僕は絶望していなかった。

 

(……なるほど。腐食、沈下、そして湿度による構造劣化。……課題は山積みだな)

 

「ガルム、荷物を降ろそう。リフ、君は無理に中に入らなくていい。……まずは、僕がこの場所を『人間が住める場所』に書き換える」


 僕が淡々と告げると、二人は呆然とした顔で僕を見た。

 重い霧の向こう側で、腐りかけた木材が再び「ギィ」と悲鳴を上げる。


 僕の、新しい「生活」が、ここから始まる。


2話です、ここまでは主に舞台や人物、問題点の説明になっています。

3話からは主人公の能力での解決が始まります。


よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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