五軒目
ほつれが戸棚から持ってきたのは、分厚いガラス製のグラスだった。
気泡がいくつも閉じ込められた無骨なグラス。
淡い翡翠色をしている。
「なんか見たことあるよな、これ。横浜だっけ?」
「いや、違います。なんか観光地です。あー見えます見えます。狭い通路が。すれ違うとき落としそうで怖いです」
「霊視してんの?」
「あー。先輩が私から傘を取り上げました。あぶねえとか言って。足に濡れた傘がまとわりついて鬱陶しいから、最初から持ってくれたらよかったのに」
「そんなこと思ってたのかよ」
「足が露出しているということは、夏です。夏で雨で観光地。そこまでしかわかりませんでした。初回なので霊視料7万円です」
「それっぽい価格で嫌だな」
ほつれが樽からワインを注ぐ。
暗めの食糧庫だからか、赤が濃く、ドロっとして見える。
「コレステロール高めですね」
「最っ悪! 今から飲むのによくそんなこと言えるな」
「謎のナッツで無事だったカナリアさん、どうぞ」
「死んだらほつれ一人になるんだからな、わかってんのか」
ほつれは、ああ、と声を小さく漏らし、グラスを渡してきた。
自分のグラスにも注ぎ、ワインの水面で消えない泡を凝視している。
急に顔を上げ、目が合う――
「じゃあ。今回も死ぬなら一緒だね」
切ないとも嬉しいともつかない表情で。
真っ直ぐにこちらを見ながら呟く。
グラスをぶつけてきた。
ごっ、と鈍い音がした。
そして二人同時に一口含む。
酸っぱい。薄い。そして、思ったより悪くない。
「残念、死にませんね」
「普通にイケるね」
「拍子抜けです。――キマったと思ったのに」
小さく呟く。
聞こえなかったことに、しない。
こういうのは全部拾うノンデリ男だからだ。
「いや、普通に47Fのダメージを負ったよ」
「何進数ですか!」
続けて、分母は! とも叫んでいる。
「しかし、飲料水には酒すぎるけど、酒にしては薄いのが問題だね」
「あれですね。帯に短し襷に……はぁ」
「あと三文字だ、頑張れ」
確かに、語呂が悪くて長過ぎることわざだとは思ってた。
厨房の作業台に、干し肉と黒パンと瓶詰めの何かを並べる。
瓶を恐る恐る開けてみると、酢漬けの野菜らしい。
「オタクは酢漬けなんか食べません」
「暴論だ」
「生命の危機に瀕したら食ってやらんこともないですが、箸でつまんだ瞬間にマズイ!って叫んでやります」
「それだとまだ食べてないね」
「私くらいになると、箸の先に味蕾があるんです」
「触腕になんの? イカタコじゃん」
「橋の先に未来があるんです」
「プロパガンダ?」
干し肉は硬かった。
黒パンはもっと硬かった。
ほつれは黒パンをワインに浸して食べている。
行儀は悪いが正解だと思う。俺も真似する。
「……あー」
ほつれが呻くような声を出した。
「なに?」
「ミサキ」
中学時代からの親友と、その新しい彼氏の話。
2軒目でも3軒目でもずっとその話をしていた。
真っ白空間を4軒目とするなら、ここは5軒目か。
「あの子、昔から男を見る目ないんですよ……大丈夫かな」
親友の彼氏が不穏、というのは女の子の定番トークだと思う。
ただ、ほつれには、自他ともに認めるほど友達がいない。
友達はミサキだけだ、と本人は言っていたが、たぶん真実だろう。
「……それで言えば、ミサキちゃんにとっては、ほつれが消えたのが、もっと辛いだろ」
言って、しまったと思った。
さすがに配慮が足りなさすぎたか。
ほつれを見る。
――硬すぎる干し肉を、無理やり飲み込もうとしていた。
整った顔が最悪の歪み方をしている。白目だ。
「あー。私たちの死体って残ってるんですかね? 肉体? 魂的なのがこっちに来たんですかね?」
「死体言うなよ」
そんなタマじゃなかったか。
気丈に振る舞ってるのか。
「先輩」
「ん」
「これと同じものを」
「このワインしかないんだって」
「そうすか」
「……酢漬け」
俺は瓶を差し出した。
「いや」
「ほら」
本当は箸なんてない。
ほつれは、謎の酢漬けを指でつまんで、食べた。
「まずいです」
「そっか」
「ピスタチオくらい、まずいです」




