オリエント
「せんぱーい、またですかー?」
本日二度目の大の字だった。
埃と、香の匂いがする。
柑橘系と木材、甘みのある材木感――乳香か。
上体を起こして声の方を向いた。
ほつれは長椅子の端に座り、所在なげに目線を落としていた。
背後のステンドグラスから入る光が、彼女の輪郭を浮き彫りにしている。
長いまつげに乗った埃が、後光を受けて淡雪のように輝く。
「教会を東向きに建てることをorientって言うんです」
彼女は厳かにつぶやき、立ち上がる。
「そこから方角を把握すること、自分の立ち位置を把握すること、のように意味が広がっていきました」
彼女はこちらの目を見ず、ゆっくりと近づき、俺の右側にしゃがみ込む。
「そうして、新しい環境で迷わないように案内をする、という意味にたどり着きました」
肩に手を置き、耳に口元を寄せてくる。
「例えば、新人をorientする。――そう、先輩も知っているはずです」
吐息のかかる距離。彼女は熱っぽく囁く。
「新人オリエンテーション」
「怖えよ」
殺されるかと思った。
尋問前のマフィアかよ。
ほつれはケラケラと笑っている。
白くきれいな歯並びがのぞく。
「ほつれちゃんの豆知識コーナーでした」
白く長い指で、笑いすぎて滲んだ涙をぬぐい、微笑んだ。
肩までの美しい黒髪が揺れる。
「今度はここ、どこですかね」
「教会だろ、多分使ってない」
「廃教会ですかね――異世界の」
ほつれは立ち上がり、片手でジャケットの裾を叩いて埃を落としている。
「うお、顔の横でやんなよ」
「あ、すいません」
俺も立ち上がり、ジャケットの裾を払う。
異世界の教会に、スーツの男女が二人。
絵にはなりそうだが、俺は鼻がむずついてそれどころではない。
ほつれは通路に積もった埃を、パンプスのつま先でなぞった。くっきりと線が引ける。
「この積もり方なら、数ヶ月ってとこですかね」
俺も周囲を見回す。
長椅子は整然と並んだまま。倒れたものはない。
燭台も説教台も、正しいであろう位置にある。
「荒らされてないな」
「ですね。慌てて逃げ出した感じでも、誰かが押し入った感じでもない」
巨大な女性の像が正面――東側に立ち、我々を見下ろしている。
二人で顔を見合わせる。
「ケンサクっすね」
「行こうか」
◇
目覚めた部屋――おそらくは礼拝堂だろう。その奥には廊下があり、いくつかの部屋が続いていた。
俺もほつれも、ろうそくを抜いた燭台を右手に携え歩く。
最初の部屋は、教会の職員――というのか、ここで働く者の寝室らしい。
同じ形の簡素なベッドが四つ。小さな棚が四つ。
ベッドは四つともきちんと整えられていた。
「慌てて飛び出した感じじゃないな」
「でも、棚の引き出し、全部半開きですよ」
ほつれが一つ覗き込む。
「中身はほとんどなし。下着とちょっとした小物。……あ、櫛は置いてってますね。替えがあったんでしょう」
「必要なものだけ選んで詰めて、閉める手間は惜しんだ、と」
「ベッドは整ってますけど」
「朝は何もなかったんじゃない? 朝起きてベッドを整えて、その後何かあった」
「で、荷造りして出ていった」
ほつれは引き出しを一つずつ、ハンカチで包んだ指先で押して閉めていく。
次の部屋は他より少し広かった。
机。書棚。ベッド。
壁には聖印らしき紋章が掛けられている。
「偉い人、司祭とかの部屋ですかね」
「だろうね」
机の引き出しには鍵がかかっていた。鍵穴の周りに、こじ開けられた跡はない。
「鍵持って行ったんですね。貴重品はここかな」
「戻ってくるつもりだったんだね」
大きな装飾品や重い本は、ほとんど置いていったようだ。
サイドテーブルの引き出しには鍵がかかっておらず、中からは開封済みの封書が大量に出てきた。
表書きをちらりと見たが、見たことのない文字なのになぜか読める。
「ざっと確認しますね」
ほつれが封書を確認している間、書棚を見て回る――ボトル、白い陶器製のボトルが置いてある。
中には、真紫のナッツのようなものが入っていた。
不気味なほどの静寂のなか、ほつれが捌く紙の音だけが響く。
ほつれは事務作業も得意だし、実働も文句無し。
社会性の部分もずいぶん改善された。
すぐ出世するだろう。
俺なんかとつるむべきではない。いや、もう遅いのか。
――ボリリ。
まずい、奥歯でゆっくり噛んだのに。
結構音が響いた。
「先輩?!」
ほつれがすっとんできた。
「こ、これ。いや、なんか。ナッツ、的な」
「なーに! してんすか! 信じらんない。ぺーしてください。ぺー!」
「いや。これ、まずいピスタチオみたいで結構うまいよ」
「どっちなんですか!」
「ピスタチオなんか、まずいのが好きで食うもんだろ!」
「うっわ逆ギレ! 論点すり替え! サイテー!」
人差し指を立てた両手をこっちに向け、中腰で非難してくる。
所作が古臭いやつだ。
「そんな危険物を置きっぱにしないだろ。――で、封書はどんな感じ?」
「お腹痛くなっても知らないですからね。封書はまあ大体わかりました。まずこの教会があるのは王国の主要都市の隣にある、そこそこの規模の町って感じですね」
「うーん?」
「堺、相模原あたりの立ち位置です」
「夢がないな」
「最低です。夢は持っていいはずです」
「そういう意図じゃねぇよ! 異世界まで来て夢のない規模感だってことだよ! というか誘導したろ!」
「炎上、辞職、記者会見」
「無駄に語呂がいい」
あとその順番は良くない。
逃げ切ってそう。
「王国に戦乱みたいな危機は見受けられないんですが、散発的な瘴気被害がある、というのが読み取れましたね」
「瘴気」
「らしいです」
ほつれが窓の方を見る。俺もつられて見る。
窓の外は紫がかった靄で煙っていた。
数メートル先の木の輪郭すら、ぼやけている。
「避難指示が出たんだろうね」
「恐らく。クリティカルな封書はなかったですが、避難指示みたいな重要な書類は、施錠された引き出しか、持ち出したかって感じですかね」
「都市運営の形態がわからんが、領主的なのがいるんじゃない? 教会が強い可能性もあるけど」
窓のすぐそばまで寄ってみた。
靄は窓の1メートルほど手前で、見えない壁にでも当たったように止まっていた。
窓とのあいだだけ空気が澄んでいる。
「超常的ななにかでしょうね」
「とにかく、教会の中は安全そうだ」
◇
最後に厨房と食糧庫を見た。
食糧庫の棚はところどころ歯抜けになっていた。
持てる分だけ持ち出して、残りはきちんと並べ直してある。
干し肉。固く焼いた黒パン。豆の袋。瓶詰めの何か。そして樽が二つ。
ほつれが樽の栓を少し緩め、匂いを嗅いだ。
「先輩」
「うん?」
「ワインです」
二人で顔を見合わせた。
今度は、言葉にしなくても同じことを考えているのが確実にわかった。
「何人分あると思う?」
「教会の人数なら数日。二人なら」
「ひと月は余裕」
「水は腐るから酒を備蓄ってやつですかね」
「海賊とかがそうだって聞いたな」
二人してキョロキョロとあたりを見回している。
言うまでもない。グラスを探しているのだ。
「いいっすよね。手を付けても」
「緊急避難でしょ」
「要件満たしますかね? ワインだと補充性が怪しくないですか」
「そこで海賊のくだりが生きてくる」
「あの戸棚のとこの、グラスですよ。取ってきますね」




