第一話「その夜のこと」
夜だった。
いつの夜かは、もう誰も覚えていなかった。
一軒家に、二つの揺り籠があった。
どちらにも、赤子が眠っていた。
よく似た、小さな寝顔だった。
イレーネは、その夜も、いつものように、二つの揺り籠を見比べていた。
どちらがどちらか、迷うことはなかった。
それでも、見比べずにはいられなかった。
物音がしたのは、月が高く昇った頃だった。
外で、何かが動いた。
風ではなかった。
イレーネは、灯りを消した。
息を潜めた。
戸の隙間から、外を見た。
何も見えなかった。
気のせいだと、思おうとした。
もう一度、物音がした。
今度は、はっきりと。
戸の方ではなかった。
裏手だった。
イレーネは、揺り籠に駆け寄った。
一つを、抱き上げた。
もう一つに、手を伸ばした。
間に合わなかった。
裏の窓が、外から開けられていた。
そこに、誰かがいた。
顔は見えなかった。
影だけだった。
「だれ——」
声にならなかった。
影は、もう一つの揺り籠に、手をかけていた。
イレーネは、抱いていた赤子を、揺り籠に戻した。
影に、駆け寄った。
腕を掴んだ。
爪が、何かに食い込んだ。
振り払われた。
床に、倒れた。
顔を上げた時には、もう、窓は開いたままで、風だけが吹き込んでいた。
揺り籠は、一つになっていた。
イレーネは、しばらく、動けなかった。
それから、残された赤子を、強く、強く、抱きしめた。
声を上げなかった。
上げれば、何かが、決定的に壊れる気がした。
朝まで、そうしていた。
誰にも、言わなかった。
言えば、残された子も、危うくなる気がした。
それに——誰に言えば、いいのか、分からなかった。
王に言えば、王はどう動くか、分からなかった。
王の動きが、また、何かを呼び寄せるかもしれなかった。
イレーネは、一人で、それを抱えた。
墓場まで持っていくつもりの荷物が、また一つ、増えた。
つづく




