第九話「三ヶ月後と、届くはずのない手紙と、フワン」
三ヶ月後、手紙が届いた。
マティアスは自室の机で報告書を書いていた。部下がドアを叩いて、手紙です、と言った。マティアスは顔を上げた。
「誰からだ」
「差出人の名前がありません。ただ、宛名だけ書いてありまして」
「私宛か」
「はい。ただ——」
部下は少し言いにくそうな顔をした。
「宛名が、ただのマティアス、とだけ書いてあります」
マティアスはペンを置いた。
「持ってこい」
手紙は小さかった。便箋一枚分だった。封蝋は赤で、模様は——犬だった。どう見ても犬だった。丸くて、耳が大きくて、尻尾が上を向いた、単純な犬の絵が押してあった。
マティアスはしばらくその封蝋を見た。
開けた。
筆跡は、予想通り、丸くて勢いがある字だった。几帳面ではなく、でも読めないほど雑でもなかった。
読んだ。
マティアス
無事に着いた。フワンは元気。犬は今七匹いる。フワンが言うには先月一匹増えたらしい。相変わらず犬に好かれている。
オットーという名前の馬も元気。よく食べる。
街道の中間に店はなかった。でも大丈夫だった。途中で農家のおじさんにパンをもらった。
夕日は好き。特に、雲が多い日の夕日が好き。色が複雑になるから。
シチューを作った。牢屋のものより旨くできた気がする。あなたに食べさせてあげたかった。
返事はしなくていい。届くかどうかも分からないし。
またね。
エルザ
マティアスは手紙を読み終えた。
もう一度読んだ。
それから、折って、引き出しを開けた。
三ヶ月前に書いた、送れなかった便箋がそこにあった。その隣に、エルザの手紙を入れた。
引き出しを閉めた。
ペンを取った。
便箋を出した。
書いた。
エルザ
届いた。
街道の中間に店がなかったのは確認不足だった。詫びる。
夕日の話を聞けてよかった。
雲の多い日の夕日が好きな理由を、いつか聞かせてくれ。
オットーは元気か。看守の方のオットーは、あの夜の後どうなったか分からない。
シチューは、機会があれば食べたい。
マティアス
書き終えた。
封筒に入れた。
住所を書く欄の前で、少し止まった。
住所を知らない。フワンという弟がいて、馬がいて、犬が七匹いる場所。それしか知らない。
マティアスは少し考えた。
それから、部下を呼んだ。
「なんでしょう」
「この手紙を届けてくれた者は、どこから来た」
「はい、王国の——」
部下が言いかけた。マティアスは手を上げて止めた。
「王国のどこだ」
「東の、小さな村からだと。届けてきたのは行商人で——」
「その行商人はまた来るか」
「月に一度は来ると言っておりましたが」
マティアスは封筒を見た。
「次に来た時に、これを渡せ。届け先は向こうが知っているはずだ」
部下は少し不思議そうな顔をした。しかし何も言わなかった。
「承知しました」
部下が出ていった。
マティアスは窓の外を見た。
今日は雲が多かった。
夕暮れまでまだ時間があったが、この雲なら夕日は複雑な色になるだろう、とマティアスは思った。
好きな理由を、いつか聞かせてくれ、と書いた。
いつか、というのがいつになるのか、分からなかった。
戦争は続いていた。国境は閉じていた。行商人が往来できるのは、まだしばらくだけかもしれなかった。
それでも。
手紙は、届いた。
届くはずのない手紙が、届いた。
ということは——
マティアスはそこで考えるのを止めた。
続きは、また今度考えることにした。
窓の外で、雲が動いていた。
夕暮れが、少しずつ近づいていた。
引き出しの中に、手紙が二通あった。
一通は送れなかった手紙で、一通は届いた手紙だった。
どちらも、同じ引き出しの中にあった。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——引き出しの中の隙間が、三ヶ月前より、少しだけ広くなっていた気がした。
その夜。
マティアスは夢を見た。
夢の中で、雲の多い夕日が広がっていた。
橙色と、赤と、紫と、色の混じった、複雑な夕日だった。
隣に誰かが立っていた。
声が言った。
ほら、きれいでしょ、と。
マティアスは答えなかった。
答える代わりに、その夕日を、しばらく黙って見ていた。
悪くなかった。
翌朝、部下が来た。
「昨日の行商人が、また来ておりまして」
「昨日来たばかりではないか」
「忘れ物をしたと言って。それで——」
部下は少し笑いを堪えた顔をした。
「あの、手紙と一緒に、これを預かっていたようで」
差し出されたのは、小さな包みだった。
開けた。
中に入っていたのは、小さな陶器の器だった。蓋がついていた。開けると——
シチューだった。
冷めていたが、確かにシチューだった。肉が入っていて、野菜が入っていて、昨日作ったばかりだろうという色をしていた。
小さな紙が添えてあった。
一言だけ書いてあった。
冷めてたらごめん。
マティアスはしばらく陶器の器を見た。
部下がまだそこにいた。
「下がれ」
「はい」
部下が出ていった。
マティアスは器を持って、窓際に座った。
冷めたシチューを、一口食べた。
旨かった。
牢屋のシチューより、宿屋のシチューより、旨かった。
冷めていたが、旨かった。
鎧の奥の、ごく小さな場所が——音もなく、静かに、揺れた。
マティアスはそれを、今日は気のせいだと思わなかった。
思わないことにした。
シチューを、最後まで食べた。
つづく




