第十話「春と、行商人と、返事の返事」
春になった。
雪が解けて、国境の道が通りやすくなった。行商人の往来が増えた。マティアスはそれを、報告書の数字で知った。国境の通行記録が、冬より三割増えていた。
実務的な話だった。
実務的な話として、処理した。
引き出しの中には、今や手紙が五通あった。
エルザからが三通、マティアスが書いたものが二通——そのうち一通は送れた。もう一通は、書いたが送らなかった。送る必要がないと判断したのではなく、送るべき言葉かどうか、まだ決めかねていた。
その手紙には、一行だけ書いてあった。
名前を呼ばれた時のことを、まだ覚えている。
それだけだった。
それ以上、続きが書けなかった。
四通目の手紙が届いたのは、雪解けから二週間後だった。
今回は行商人ではなかった。見知らぬ少年が、本部の門まで来て、これを届けるように頼まれたと言った。部下が受け取って、マティアスに持ってきた。
封蝋は、また犬だった。
今回の犬は、前回より少し上手く描けていた。耳の形が、より犬らしかった。
マティアスはそれを少し見てから、開けた。
マティアス
春になった。フワンが畑を始めた。向いてないと思う。昨日、種を全部鳥に食べられた。フワンは泣いていた。犬たちが慰めていた。犬は今八匹いる。また増えた。
雲の多い日の夕日が好きな理由、聞いてたわね。
小さい頃、母親が病気だった時期があって、その時ずっと家にいたの。外に出られなくて、窓から空だけ見てた。晴れた日の夕日はきれいだけど、単純すぎてすぐ見飽きる。雲が多い日は、色が変わり続けるから、ずっと見ていられた。
それだけの理由よ。大した話じゃないけど。
あなたは、何か好きなものはある? 景色でも、食べ物でも、なんでも。
シチュー、食べてくれた? 冷めてたでしょ。今度は温かいうちに届けたい。でも国境があるから難しいわね。
またね。
エルザ
追伸 フワンが、マティアスって誰、と聞いてくる。どう答えればいいの。
マティアスは手紙を読み終えた。
もう一度読んだ。
追伸のところで、少し止まった。
どう答えればいい、とエルザは書いていた。
マティアスは少し考えた。
それから便箋を取り出した。
エルザ
春になった。こちらも雪が解けた。
雲の多い夕日の話、聞けてよかった。晴れた日より雲の多い日を選ぶのは、正しい判断だと思う。変化し続けるものの方が、長く見ていられる。
好きなものを聞かれた。考えた。
夜明け前の、空がまだ決まっていない時間が好きだ。橙色になるか、灰色になるか、まだ分からない時間。あの時間は、何にでもなれる気がする。実際にはそんなことはないが、そう感じる。
シチューは食べた。冷めていたが、旨かった。今まで食べた中で一番旨かった。冷めていたにもかかわらず、だ。
フワンへの答えについては——
マティアスはそこでペンを止めた。
どう答えればいい、という問いへの答えを、三通り考えた。
一つ目。知人だと答えろ。
二つ目。敵国の軍人だと答えろ。
三つ目。
マティアスはしばらく考えた。
三つ目を書いた。
壁越しに話した人間だと答えればいい。それ以上でも、それ以下でもない。今のところは。
マティアス
追伸 畑は、種を植える前に網を張るといい。鳥除けになる。フワンに伝えてくれ。
書き終えた。
封をした。
行商人が来るのは来週だった。それまで引き出しに入れておくことにした。
引き出しを開けた。
手紙が五通あった。六通目を入れた。
閉めようとした。
止まった。
送らなかった手紙が、一番奥にあった。
名前を呼ばれた時のことを、まだ覚えている。
一行だけ書いた手紙だった。
マティアスはそれを取り出した。
続きを書こうとした。
書けなかった。
書けなかったが——今日は、書けなかった理由が、前とは少し違っていた。
前は、送るべき言葉かどうか分からなかったから、書けなかった。
今日は——
送ってもいいかもしれない、と思い始めているから、書けなかった。
マティアスは便箋を折って、また引き出しに戻した。
閉めた。
窓の外では、春の風が吹いていた。
雲が流れていた。
今日は晴れていた。雲は少なかった。
夕暮れまで、まだ時間があった。
夕日が単純な色になる日だな、とマティアスは思った。
それから——エルザなら、こういう日は退屈だと言うだろうか、それとも、それはそれで好きだと言うだろうか、と考えた。
答えは分からなかった。
次の手紙で聞けばいい、と思った。
思ってから、少し驚いた。
次の手紙、という言葉が、自分の中でごく自然に出てきたことに。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——引き出しの中で、手紙が六通になっていた。
それは確かなことだった。
その夜。
マティアスは夢を見なかった。
よく眠れた。
久しぶりに、よく眠れた。
朝、目が覚めた時、窓の外は夜明け前だった。
空がまだ決まっていない時間だった。
橙色になるか、灰色になるか、まだ分からない時間。
マティアスはしばらく、その空を見ていた。
何にでもなれる気がした。
実際にはそんなことはない。
でも今日は、そう感じることを、許すことにした。
つづく




