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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第一章 牢屋と、壁と、名前を知らない花

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第八話「帰り道と、穴と、それから」


帰り道に、また穴があった。

マティアスは今度は落ちなかった。ぎりぎりで気づいて、一歩手前で止まった。穴の縁に立って、下を見た。そこそこ深かった。

落ちなかった自分を褒める気にはなれなかった。

そもそも気づくべきだったのだ、最初から。三日前、この道を逆向きに走っていた時に。あの時は夜で、暗くて、追っ手に気を取られていて——

言い訳だ、とマティアスは思った。

穴は悪くない。自分が悪かった。

今更そう結論を変えた。

穴を迂回して、歩き続けた。


国境まで、半日ほどかかった。

検問は三箇所あった。全部抜けた。身分を偽る書類は、潜入前に用意してある。こういうところだけは、抜かりなくやってきた。

国境を越えた瞬間、マティアスは立ち止まった。

振り返った。

王国の空が、国境の向こうに続いていた。雲が流れていた。鳥が飛んでいた。どこにでもある、普通の空だった。

エルザは今頃どのあたりを走っているだろう、とマティアスは考えた。

馬の速度と出発時刻から計算すると、今頃はちょうど街道の中間あたりだ。天気は良い。追っ手の可能性は低い。あの馬は大人しかったから、御しやすいはずだ。食料は——

マティアスはそこで気がついた。

食料を渡していなかった。

宿屋で朝食は食べたが、道中の分を用意していなかった。革袋の中の金で買えばいい、そう判断したが、街道の中間に店があるかどうかは確認していなかった。

迂闊だった。

彼は少し考えた。

今から引き返すのは現実的ではない。もうかなりの距離がある。エルザは馬があるから速い。追いつけないかもしれない。

それに——

引き返す理由としては、弱い。

食料なら、どこかで調達できる。エルザは頭が回る。金もある。何とかするだろう。

「何とかする」という言葉が、頭の中でエルザの声で再生された。

マティアスは前を向いた。

自国の空が、目の前に広がっていた。

歩き始めた。


本部に戻ったのは、それから三日後だった。

上官への報告は簡潔に済ませた。任務は完了した。書類の確認も済んだ。身柄を拘束されていたのは想定外だったが、自力で脱出した。以上だ。

上官は少し怪訝な顔をした。

「脱出の際に、協力者は」

「いない」

「一人で?」

「そうだ」

上官はしばらくマティアスを見た。それから、まあいい、という顔で書類に何かを書いた。

マティアスは自室に戻った。

久しぶりの自室だった。整頓されていた。埃もなかった。部下が管理しておいてくれたらしかった。

窓を開けた。

外の空気が入ってきた。

花の香りはしなかった。この国の、この季節の風の匂いがした。知っている匂いだった。慣れた匂いだった。

マティアスは窓の外を見た。

夕暮れが近かった。空が橙色に染まり始めていた。

ふと思った。

エルザは夕日が好きか嫌いか、聞いていなかった。

弟のフワンのことは三十分聞いた。好き嫌いの多い食べ物のことも聞いた。犬に懐かれやすい体質のことも聞いた。

夕日のことは、聞かなかった。

必要のない情報だったからだ。

そのはずだった。

マティアスは夕日を見た。

牢屋の窓は西向きだったから、あの三日間、毎日この色を見ていたはずだった。エルザの牢屋は北か西向きだった。北なら夕日は見えなかった。西なら見えた。

どちらだったのかも、聞いていなかった。

窓を閉めた。

机に座った。

報告書を書こうとした。

書けなかった。

正確には、書き始めたが、途中で止まった。

ペンを置いた。

天井を見た。

石造りの天井だった。牢屋の天井と、材質は同じだった。しかし色が違った。牢屋の天井は、煤けた灰色だった。自室の天井は白かった。

白い天井を見ていたら、ふと思った。

エルザは今頃どこにいるだろう。

馬の速度から計算すると——

マティアスはそこで止まった。

また計算していた。

なぜ計算しているのか。もう関係のないことだ。エルザは弟のところへ向かっている。無事に着くだろう。それで終わりだ。

終わりだった。

終わりのはずだった。

机の引き出しを開けた。

便箋があった。

マティアスはそれを取り出して、机の上に置いた。

ペンを持った。

書き始めた。

何を書くのか、自分でもよく分からなかった。

ただ、書いた。

食料を渡すのを忘れた、と書いた。

街道の中間に店があるかどうか確認しなかった、と書いた。

それは迂闊だった、と書いた。

それから、少し間を置いて。

夕日が好きか嫌いか、聞けばよかった、と書いた。

ペンを置いた。

便箋を見た。

送れない手紙だった。住所を知らない。フワンという弟の名前しか知らない。それだけでは届けようがない。

届かない手紙だった。

だから書いた、という気もした。

届かないから、書けた。

マティアスは便箋を折った。引き出しに入れた。

閉めた。

窓の外では、夕日が沈んでいた。

橙色が、少しずつ、暗くなっていった。

鎧は、元通りに戻っていた。

ただ——引き出しの中に、小さな隙間が、一つできていた。


その夜、マティアスは夢を見た。

夢の中で、穴があった。

今度は落ちなかった。

穴の向こう側に、栗色の髪の女が立っていて、こっちよ、と言っていた。

マティアスは穴を迂回した。

向こう側に着いた時には、もうそこには誰もいなかった。

花の香りだけが、残っていた。

名前を知らない、甘い花の香りが。


つづく

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