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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第一章 牢屋と、壁と、名前を知らない花

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第七話「別れと、シチューと、名前を呼ぶということ」


村は小さかった。

石造りの家が十数軒、広場に井戸が一つ、宿屋が一軒、厩が一つ。それだけの村だった。朝の早い時間だったが、すでに何人かが動いていた。パンを抱えた老婆、桶を運ぶ少年、厩の前で欠伸をしている厩番。

マティアスは村に入る前に、エルザに言った。

「余計なことを話すな」

「余計なことって?」

「何でもだ」

「具体的に言ってくれないと分からないわよ」

「名前、素性、昨夜のこと、全部だ」

エルザは少し考えた。

「……つまり何も話すなってこと?」

「そういうことだ」

「愛想なく生きてるのね、あなた」

「愛想は命を削る」

「格言みたいに言わないでよ」

それでもエルザは頷いた。村に入ってからは、口数が減った。減ったが、ゼロにはならなかった。

厩番に馬の値段を聞く時、マティアスの隣で小声で「高くない?」と言った。

「相場だ」とマティアスは言った。

「あなた、この国の相場まで知ってるの?」

「知らなければ潜入できない」

「経験ね」

「そうだ」

馬は一頭買った。栗毛の、大人しそうな雌馬だった。エルザが見た瞬間に「かわいい」と言った。厩番が少し嬉しそうな顔をした。

「名前をつけてもいい?」とエルザがマティアスに聞いた。

「お前の馬だ。好きにしろ」

「じゃあ——オットー」

マティアスは少し間を置いた。

「……看守の名前をつけるのか」

「だってお世話になったじゃない。気絶させちゃったし、せめて名前だけでも」

「馬に看守の名前をつけることを、本人が喜ぶとは思えない」

「喜ぶわよ、きっと。オットーさん、動物好きそうだもの」

「根拠がない」

「あの顔は動物好きよ」

マティアスは厩番を見た。厩番は二人のやり取りを、困惑した顔で聞いていた。

「行くぞ」とマティアスは言った。


宿屋で朝食を取った。

出てきたのはパンとスープと、昨日の残りらしいシチューだった。

エルザがシチューを見て、笑った。

「またシチュー」

「何かあるか」

「ないけど。なんか、牢屋みたいね」

「牢屋の方が旨かったな」

エルザが吹き出した。

「あなたが言うの、それ」

「事実だ」

「確かに、あそこのシチューは旨かったわよね。コック長が元料理人だって言ったら、信じる?ってあなたに最初に話しかけた時に言ったのよ」

「覚えている」

「覚えてるの?」

「最初の会話だ。覚えている」

エルザはスプーンを持ったまま、マティアスを見た。

「あなたって、全部覚えてるの?」

「必要なものは」

「私との会話は必要だったの?」

マティアスはシチューを食べた。宿屋のシチューは、確かに牢屋のものより劣った。肉が少なく、味が薄かった。

「……覚えていた方がいいと判断した」

「どうして」

「脱出に必要な情報が含まれていたからだ」

「それだけ?」

マティアスは答えなかった。

エルザはしばらくマティアスを見ていた。それからシチューを食べ始めた。

「まあいいけど」と彼女は言った。

窓の外では、村の朝が続いていた。井戸端で女たちが話していた。子供が走っていた。どこかで鶏が鳴いていた。

「ねえ」とエルザが言った。

「なんだ」

「出発する前に、一つだけ聞いていい?」

「なんだ」

「あなた、また捕まることってある?」

マティアスは少し考えた。

「あるかもしれない」

「その時また穴に落ちるの?」

「穴があれば」

「次は穴に気をつけてよ」

「善処する」

エルザはくすっと笑った。それからスプーンを置いた。

「……行かなきゃね、私も」

「そうだ」

「フワンのところまで、二日か」

「馬があれば一日半で着く」

「そう」

エルザは窓の外を見た。厩の前に、オットーと名付けられた栗毛の馬が繋がれていた。大人しく立っていた。

「マティアス」

「なんだ」

「名前を呼んでもいい? ちゃんと、声に出して」

マティアスは少し間を置いた。

「呼んでいるだろう、今も」

「そうじゃなくて——お別れの時に、ちゃんと呼びたいの。名前を」

マティアスは答えなかった。

エルザは続けた。

「壁越しに三日間呼び続けた名前だから。最後に、ちゃんと顔を見て呼びたい」

マティアスは窓の外を見た。

朝の光が、村全体を照らしていた。石畳が光っていた。馬が耳を動かしていた。

「……好きにしろ」

「じゃあ、出る時に呼ぶわね」

「ああ」

食事を終えた。勘定を払った。宿屋を出た。

厩の前まで歩いた。マティアスが馬の手綱をほどいた。エルザに渡した。

エルザは手綱を受け取った。馬の鼻先を撫でた。オットー、と小さく呼んだ。馬は大人しく首を動かした。

「じゃあ」とエルザは言った。

「ああ」

「達者でね」

「お前もな」

エルザは馬に乗った。マティアスが手を貸した。一瞬だけ、手が触れた。

それだけだった。

それだけのことだったが。

エルザは馬の上から、マティアスを見下ろした。

朝の光の中で、栗色の髪が風に揺れていた。大きな目が、まっすぐにこちらを見ていた。

「——マティアス」

名前を呼んだ。

声に出して、顔を見て、呼んだ。

マティアスは答えなかった。

答える言葉を、持っていなかった。

「またね」とエルザは言った。

約束ではなかった。願いでもなかった。ただの、言葉だった。

でもその言葉が、鎧の隙間から、まっすぐに入ってきた。

「……ああ」

馬が歩き始めた。

石畳の音が遠ざかっていった。

マティアスはその場に立ったまま、エルザの後ろ姿を見ていた。

栗色の髪が遠くなった。馬の足音が小さくなった。村外れの角を曲がった瞬間、エルザが一度だけ振り返った。

手を振った。

マティアスは動かなかった。

動かなかったが——右手が、ほんのわずかだけ、持ち上がった。

エルザはもう見ていなかった。角の向こうに消えていた。

朝の風が来た。

花の香りは、もうしなかった。

マティアスはしばらくその場に立っていた。

それから、踵を返した。自分の国へ向かう方向へ、歩き始めた。

鎧は、また元通りに戻っていた。

ただ——隙間が、昨日より少しだけ、広くなっていた。

その隙間を、朝風が通り抜けていった。

悪くない、とマティアスは思った。

思ったことを、誰にも言わなかった。

言う相手が、もうここにはいなかったから。


つづく

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