第六話「夜明けと、馬と、余計なひと言がまたひとつ」
夜明けまで、あと少しだった。
森の中で、二人は並んで木の根に腰を下ろしていた。追っ手の気配はない。虫の音だけが、暗闇の中で静かに続いていた。
エルザはいつの間にか、うとうとしていた。
木の幹に頭を預けて、目を閉じて、規則正しく息をしていた。革袋を両手でしっかり握ったまま眠っていた。
マティアスはその隣で、周囲の気配を確認し続けていた。
仕事だった。
仕事のつもりだった。
ただ、時々、隣を見た。
栗色の髪が、夜明け前の薄い光の中で、少しだけ輝いていた。眠っている顔は、起きている時よりずっと静かだった。あれだけ喋り続けていた口が、今は小さく閉じられていた。
マティアスは視線を前に戻した。
森の向こうが、少しずつ白くなっていた。
「……ん」
エルザが目を開けた。それからすぐに、はっとした顔でマティアスを見た。
「寝てた」
「ああ」
「どのくらい」
「一時間ほどだ」
「あなたは?」
「寝ていない」
エルザは眉を寄せた。
「なんで起こしてくれなかったの」
「必要がなかった」
「交代で見張るとかしないの?」
「お前が見張っても意味がない」
「ひどい」
「事実だ」
エルザはむっとした顔をした。それから空を見上げた。東の端が、橙色に染まり始めていた。
「……きれいね」
マティアスも空を見た。
「そうだな」
「こんな夜明け、久しぶりに見た。牢屋の窓、北向きだったから朝日が入らなくて」
「そうか」
「あなたの牢屋は?」
「西向きだった」
「じゃあお互い夕日しか見えなかったわけね」
「そういうことになる」
エルザはくすっと笑った。
「なんか変な共通点」
「そうだな」
二人でしばらく、夜明けを見ていた。
橙色が広がって、空の青が薄くなって、鳥が一羽、森の上を横切っていった。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「あなたって、きれいなものを見る時だけ、少し顔が変わるね」
マティアスは前を向いたまま言った。
「変わっていない」
「変わってるわよ。ほんの少しだけど、目が柔らかくなる」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないわよ」
マティアスは返事をしなかった。
エルザは立ち上がって、体を伸ばした。それから革袋を確認して、マティアスを見下ろした。
「行きましょうか」
「ああ」
「村まで、どのくらい?」
「森を抜けて半刻ほどだ」
「半刻って——一時間くらい?」
「そうだ」
「歩けるわよ、それくらい」
マティアスも立ち上がった。二人で歩き始めた。
朝の光が、木々の隙間から差し込んでいた。昨夜は暗くて見えなかった森の中が、今は緑色に輝いていた。
「ねえ」
「なんだ」
「フワンのところに着いたら、手紙を書いてもいい?」
マティアスは少し間を置いた。
「誰に」
「あなたに」
「私に届く保証がない」
「届かなくてもいいの。書くだけ」
「……意味がない」
「意味はあるわよ、私にとっては」
マティアスは答えなかった。
木の根を踏んで、落ち葉を踏んで、朝の森を歩いた。鳥の声が増えていた。どこかで水の音がした。小川があるらしかった。
「ねえ、マティアス」
「なんだ」
「もし戦争が終わったら——」
「終わらない」
「終わったら、の話よ」
「……続けろ」
エルザは少し考えるような間を置いた。
「また会えるかな」
マティアスは足を止めなかった。
前を向いたまま、森を歩き続けた。
「……分からない」
「分からないって、会えるかもしれないってこと?」
「会えないかもしれないということだ」
「両方ね」
「そうだ」
エルザはしばらく黙った。
それから、また歩きながら言った。
「じゃあ会えた時のために、好きな食べ物を教えておくわ」
「なぜ」
「再会した時に、それを用意するから」
「再会する前提で話すな」
「するかもしれない前提で話してるの。シチュー、好きでしょ」
マティアスは少し黙った。
「……嫌いではない」
「牢屋で美味しそうに食べてたもの」
「見えていなかったはずだ」
「音で分かるのよ。スプーンの動き方が、嫌いな人のそれじゃなかった」
マティアスはエルザを見た。
エルザは澄ました顔で前を向いていた。
「……お前は」
「なに?」
「声だけで体力が分かると言ったら経験で済ませるなと言った」
「言ったわね」
「スプーンの音で好き嫌いが分かるのも、経験か」
エルザがくすっと笑った。
「そうかもしれない」
「どういう経験だ」
「弟の子守よ。フワンって好き嫌いが多くてね、嫌いなものを出すと食べ方が変わるの。だから音で分かるようになった」
「……そうか」
「シチュー、好きでよかった。再会した時に作りやすいから」
「再会しないかもしれない」
「するかもしれない」
マティアスは返事をしなかった。
森の出口が見えてきた。木々の向こうに、朝の光に照らされた草原が広がっていた。遠くに、小さな村の屋根が見えた。
「着いたら馬を買う」とマティアスは言った。「それから食事をして——」
「食事?」
「お前は一時間走って、一時間歩いた。食べなければ次が続かない」
エルザはマティアスを見た。
「……気を遣ってくれてるの?」
「合理的な判断だ」
「合理的ね」
「そうだ」
エルザはまた澄ました顔で前を向いた。
でも口の端が、少し上がっていた。
マティアスはそれを見なかった。
見なかったが——見た、と言う方が、今日は正確だった。
村が近づいていた。朝の煙が、どこかの家の煙突から上がっていた。
パンを焼く匂いがした。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「村を出たら、もうお別れね」
「そうだ」
「短かったね」
「三日と一晩だ」
「短いでしょ」
「……そうだな」
エルザは草原の入り口で立ち止まった。振り返って、マティアスを見た。
朝の光の中で、栗色の髪が輝いていた。大きな目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「マティアス」
「なんだ」
「鎧の中の人、好きよ」
マティアスは答えなかった。
鎧は、確かにそこにあった。
ただ——今この瞬間だけは、その重さをほとんど感じなかった。
「行くぞ」と彼は言った。
「うん」とエルザは言った。
二人は朝の草原へ踏み出した。
つづく




