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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater
第一章 牢屋と、壁と、名前を知らない花

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第五話「名前と、それから朝」


走った。

どのくらい走ったのか、マティアスには正確には分からなかった。城壁を越えて、石畳の路地を抜けて、川沿いの細い道を進んで、森の入り口まで来た時には、エルザの息が完全に上がっていた。

「ちょ——ちょっと——待って——」

「あと少しだ」

「あと少しって何キロよ——」

「森に入れば追っ手は来ない。暗くて入りたがらない」

「私も入りたくない——」

「入れ」

「横暴——」

それでもエルザは入った。マティアスの後を、息を切らしながらついてきた。文句を言いながら、それでも足を止めなかった。

森は暗かった。木々の間から星明かりが落ちていて、それだけが頼りだった。

五分ほど進んだところで、マティアスは足を止めた。

「ここでいい」

「ここって——」

「追っ手が来たとしても、ここまでは来ない。今夜はここで休む」

エルザは木の幹に背を預けて、ずるずると座り込んだ。膝に手をついて、しばらく息を整えていた。

マティアスは周囲の気配を確認した。追っ手の音はない。遠くで梟が鳴いていた。

「……生きてる」とエルザが言った。

「当然だ」

「いや、あの速さで走ったら死ぬかと思った」

「大袈裟だ」

「大袈裟じゃないわよ。私、そんなに体力ないの」

「知っている」

エルザが顔を上げた。

「知ってるって、何で」

「声を聞けば分かる」

「声で体力が分かるの?」

「大体は」

エルザはしばらくマティアスを見た。それから、ふ、と小さく息を吐いた。

「あなた、色々分かりすぎじゃない?」

「経験だ」

「経験って言えば全部済ませるのね」

「済む話だからだ」

エルザはまた木の幹に頭を預けた。空を見上げた。木々の隙間から、星がいくつか見えた。

しばらく、二人とも黙っていた。

虫の音がしていた。風が木の葉を揺らしていた。花の香りは、もうここまでは届かなかった。

「ねえ」とエルザが言った。

「なんだ」

「約束、覚えてる?」

マティアスは少し考えた。

「名前か」

「そう。ちゃんとした名前。出たら教えてくれるって言ったでしょ」

「言っていない」

「出てから考えるって言ったじゃない」

「考えると言った」

「同じことよ」

マティアスは黙った。

エルザは星を見上げたまま、続けた。

「私はちゃんと教えたわよ。エルザ・ヴァイスって。だからあなたも——」

「マティアス・フォン・クロイツァー」

エルザが黙った。

「……フォン?」

「ああ」

「それって貴族の——」

「そうだ」

エルザはしばらく何も言わなかった。木の幹に頭を預けたまま、星を見ていた。

それから、ゆっくりと顔を下ろして、マティアスを見た。

「……なんで最初から言わなかったの」

「必要がなかった」

「必要って——」

「牢屋の中では、ただのマティアスで十分だった」

エルザがまたマティアスを見た。

じっと見た。

マティアスはその視線を、正面から受けた。表情は変えなかった。変えられなかった、という方が正確だったかもしれない。

「……ただのマティアス」とエルザが繰り返した。

「そうだ」

「三日間、壁越しに話してた、ただのマティアス」

「ああ」

エルザはしばらく黙った。

それから、くすっと笑った。

「なんか、いいね、それ」

「……そうか」

「うん。フォン・クロイツァーより、ただのマティアスの方が、私は好きよ」

マティアスは返事をしなかった。

森の中で、風が吹いた。木の葉が揺れた。星明かりが、エルザの栗色の髪を少しだけ照らした。

「ねえ」

「なんだ」

「これからどうするの、あなたは」

「帰る」

「帰るって——敵国に?」

「私の国だ」

「ああ、そうか」

エルザは少し考えるような顔をした。

「私は——どうしようかな」

「家に帰れ」

「帰ったら、また捕まるかもしれない」

「……それは」

「王様の甥っ子、しつこいから」

マティアスは少し考えた。

「弟がいると言っていた」

「フワン。うん」

「フワンのところへ行け。しばらくそこにいろ」

「フワンの家、ここから遠いのよ」

「どのくらいだ」

「馬で二日くらい」

「馬は調達できる」

「え、どこで」

「この森を抜けた先に、村がある。そこで買う」

「お金は?」

マティアスは懐に手を入れた。革の小袋を取り出した。エルザに渡した。

エルザは受け取って、中を見た。目が丸くなった。

「……こんなに」

「足りるだろう」

「足りるどころじゃないわよ。どこに持ってたの」

「潜入する時は、常に持つ」

「さすが経験者」

「馬を買って、弟のところへ行け。しばらく大人しくしていれば、甥っ子の方が飽きる」

エルザは革袋を握ったまま、マティアスを見た。

さっきと違う目だった。笑ってもなく、驚いてもなく、ただまっすぐに、こちらを見ていた。

「……あなたは本当に帰るの」

「ああ」

「もう会えないかもしれないね」

「敵国同士だからな」

「そうね」

エルザは空を見上げた。星が、さっきより少し動いていた。夜が深くなっていた。

「ねえ、マティアス」

「なんだ」

「鎧、少し脱げた?」

マティアスは答えなかった。

エルザは答えを待たなかった。

「脱げてたわよ、三日間。壁越しだったけど」

マティアスは森の暗闇を見た。

遠くで、夜明け前の鳥が一声鳴いた。

「……そうかもしれない」

エルザが笑った。今度は小さく、でも本物の笑い声だった。

「よかった」

「何がだ」

「鎧の中に、ちゃんと人がいたから」

マティアスは返事をしなかった。

夜明けが近かった。空の端が、ほんのわずかに白み始めていた。

鎧は、まだそこにあった。

ただ——隙間から、夜明けの光が差し込んでいた。

それを、今夜だけは、気のせいだと思わないことにした。


つづく

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