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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第一章 牢屋と、壁と、名前を知らない花

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第四話「脱出前夜と、言えなかったこと」


三日目の朝食はシチューだった。

最初の夜と同じ、肉の入ったシチューだった。マティアスはそれを見て、少しだけ複雑な気持ちになった。旨い飯は脱出する気力を削ぐ、と三日前に思ったことを思い出したからだ。

今夜、ここを出る。

「ねえ」

「なんだ」

「今日ね、ルッツが妙な顔でこっちを見てたの」

マティアスはスプーンを止めた。

「どういう妙な顔だ」

「なんか、疑ってるみたいな。いつもは真面目に前だけ見て歩くのに、今日は私の扉の前でちょっと立ち止まったのよ」

「何か言ったか」

「ううん。ただ見てただけ。でもなんか、嫌な感じがした」

マティアスは少し考えた。

「今夜の何時に感じた」

「朝の巡回。八時ちょっと過ぎ」

「いつもと違う時間か」

「いつもは八時きっかりなのよ。几帳面だから。今日だけ遅かった」

「……気になるな」

「ね。どうする?」

「予定は変えない。ただ、今夜は少し早めに動く」

「何時頃?」

「オットーの腹が痛くなる前に、こちらから動く」

「どうやって」

「お前が騒ぐ」

沈黙。

「……私が?」

「そうだ。具合が悪いと騒げ。オットーが来る。扉を開けた瞬間に動く」

「それって——」

「オットーは傷つけない。気絶させるだけだ」

「気絶って」

「すぐ目が覚める。問題ない」

エルザがしばらく黙った。

「……オットーさん、いい人なのに」

「いい人だから選んだ。悪い人間を気絶させると、目が覚めた後が面倒だ」

「それはまあ、そうかもしれないけど」

「不満か」

「不満というか——なんか申し訳ないな、って」

マティアスはシチューを食べながら、少し考えた。

「オットーには後で詫びる機会があるかもしれない。だが今夜お前をここから出せなければ、その機会は永遠に来ない」

エルザが黙った。

長い沈黙だった。シチューが半分なくなった頃、エルザがまた口を開いた。

「……ねえ、マティアス」

「なんだ」

「あなた、この国の敵なんでしょ」

「そうだ」

「なんで私を助けるの」

マティアスはスプーンを置いた。

窓の外では昼の光が満ちていた。今日は風が強いらしく、花の香りがいつもより濃く運ばれてきた。

「理不尽を見過ごす趣味がないと言った」

「それだけ?」

「……それだけだ」

「嘘くさい」

「嘘ではない」

「でも」

エルザは少し間を置いた。

「三日間、壁越しに話してきて——あなたって、そんなに単純な人じゃないと思うから」

マティアスは答えなかった。

答えられなかった、と言う方が正確だったかもしれない。

「まあいいけど」とエルザは言った。明るい声だったが、無理に明るくした声ではなかった。「理由なんてなくてもいいわよ。助けてもらえるなら」

「……そうか」

「うん。ただ」

「なんだ」

「無事に出たら、名前を教えてよ。ちゃんとした名前」

「マティアスと言った」

「苗字よ」

マティアスは少し間を置いた。

「……出てから考える」

「それって教えてくれるってこと?」

「出てからだ」

エルザがくすっと笑った。

「じゃあ絶対に出ないとね」

「そういうことだ」


夜になった。

オットーの足音が廊下に響いた。いつもと同じ、少し重い、腹の出た中年男の足音だった。

エルザが動いた。

「オットーさん! お腹が痛い! すごく痛い! ちょっと!」

足音が止まった。

「……またうるさいな」

「本当に痛いの!ちょっと来て!」

舌打ちの音がした。鍵束の音がした。扉が開く音がした。

マティアスは動いた。

音もなく、迷いもなく。

オットーが気づいた時にはもう遅かった。

廊下に、どさり、という音が落ちた。

「……オットーさん、ごめんなさい」

エルザの声が、小さく言った。

マティアスは鍵束を拾った。隣の扉へ向かった。鍵穴は左側だとエルザが言っていた。三本目の鍵が合った。

扉が開いた。

そこに、エルザがいた。

三日間、壁越しにしか話したことのなかった声の主が、そこに立っていた。

栗色の髪だった。思ったより背が低かった。目が大きくて、今はその目が丸く見開かれていた。

マティアスを見て、エルザは少し固まった。

マティアスもエルザを見た。一秒だけ見た。

「行くぞ」

「——う、うん」

走った。

廊下を曲がった。階段を上がった。裏口へ向かった。

走りながら、エルザが小声で言った。

「思ったより、ずっとかっこいいじゃない」

「黙れ」

「だって——」

「走れ」

「走りながら言ってるの!」

夜風が来た。

花の香りがした。名前を知らない、甘い花の香りだった。

裏口の扉を蹴り開けた瞬間、冷たい夜の空気が二人を包んだ。

星が出ていた。

エルザが空を見上げて、短く息を吐いた。それから、小さく笑った。

マティアスはそれを見なかった。

見なかったが——見た、と言う方が正確だったかもしれない。

「行くぞ」

「うん」

二人は夜の中へ走り出した。

鎧の奥の、ごく小さな場所が——今夜だけは、鎧ごと、夜風に晒されていた。


つづく

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