第三話「二日目の朝食と、余計な一言」
朝食はパンとスープだった。
昨日と同じ少年が持ってきた。そばかすだらけの、制服がまだ馴染んでいない少年だった。マティアスの前にトレイを置いて、それからどうしても我慢できないという顔で、鉄格子越しにじっとこちらを見た。
「……あの」
「なんだ」
「本当に、脱出するつもりなんですか」
マティアスはパンを手に取った。
「誰から聞いた」
「エルザ様が」
「エルザ様」
「あ、隣の——」
「様をつける必要があるのか、あれに」
少年は目を丸くした。それから慌てて、
「え、あの、エルザ様はその、一応身分が——」
「持ち場に戻れ」
少年はびくっとして、敬礼して、走って消えた。
マティアスはスープを一口飲んだ。悪くない味だった。
「聞こえてたわよ」
「知っている」
「様をつけなくていいとは思うけど、あれに、はひどいんじゃないかしら」
「事実だ」
「どこが」
「壁越しに一晩話した相手に様はつけない」
しばらく間があった。
「……それはそうかもしれないけど」
「そうだ」
「でも初対面の女性には——」
「お前と私はもう初対面ではない」
「昨日会ったばかりでしょ」
「昨日から数えれば二日目だ」
「屁理屈ね」
「論理だ」
エルザはため息をついた。マティアスはパンを食べた。窓から朝の光が差し込んで、石の床に細い筋を引いていた。
「ねえ」
「なんだ」
「三日後まであと二日ね」
「そうだ」
「計画は進んでるの?」
「情報が足りない」
「何が知りたいの」
「お前の牢屋の窓はどちらを向いている」
「え? えっと、朝は暗いから——たぶん北か西」
「窓の鉄格子は何本だ」
「四本」
「間隔は」
「こぶし二つ分くらい」
「お前のこぶしか」
「私の」
「大きさは」
「なんで」
「答えろ」
エルザがしばらく黙った。測っているらしかった。
「……七センチくらい」
「では間隔は十四センチ前後。通れない」
「そうね」
「扉の蝶番はどちら側だ」
「右。鍵穴は左。鍵はオットーさんと、昼の看守のルッツが持ってる」
「ルッツとはどういう男だ」
「融通が利かない。真面目すぎて怖いくらい。オットーさんとは正反対」
「勤務時間は」
「朝の八時から夕方の五時まで」
「ではその間は動けない。夜はオットーが来る」
「そういうこと。で、三日後の夜にオットーさんの腹が痛くなるわけね」
マティアスはパンを食べ終えた。スープを飲み干した。
「大体の絵は見えた」
「本当に?」
「あとは当日次第だ」
エルザがしばらく黙った。それから、少し声が変わった。明るさの奥に、本物の何かが混じった声だった。
「ねえ、マティアス」
「なんだ」
「なんでそんなに手慣れてるの」
「経験だ」
「こういうこと、前にもしたことがあるの」
「似たようなことは」
「捕まったことも?」
「……ある」
「その時も脱出したの」
「した」
「一人で?」
「そうだ」
窓の光が少し角度を変えた。朝が進んでいた。
「今回は一人じゃないね」とエルザが言った。
「そうだな」
「私がいる」
「……ああ」
「役に立てるかな」
その声は、初めて少しだけ翳りを帯びていた。いつもの明るさの端っこだけ、不安が滲んでいた。
マティアスはそれを聞かなかったことにしようとした。
できなかった。
「お前には、お前にしかできないことがある」
「……何?」
「オットーを一週間、気力をもって相手にし続けた。ルッツの交代時間を把握している。この牢屋の構造を誰より知っている」
「それって全部、ここに長くいたってだけじゃない」
「情報だ。情報は武器になる」
エルザが黙った。
長い沈黙だった。
「……ありがとう」
小さな声だった。昨夜の笑い声とも、さっきのむっとした声とも、違う声だった。
マティアスは返事をしなかった。
しばらく、ただ窓の光を見ていた。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「あなたって、いつもこんな感じなの」
「こんな感じとは」
「なんか、全部計算してるみたいで、でも冷たいわけじゃなくて——鎧、って感じ」
マティアスは少し驚いた。表には出なかったが。
「昨日あなた自分でそう言ってたけど、本当にそうだって思って。鎧を着てる感じ。でもその中に人がいるのは分かる」
「……そうか」
「その鎧、重くない?」
マティアスは答えなかった。
花の香りが、朝の光と一緒に窓から入ってきた。夜よりも薄く、しかし確かにそこにあった。
「ねえ、三日後まで色々話してくれる?」とエルザは言った。「退屈しのぎに」
「退屈しのぎなら他を当たれ」
「他にいないじゃない、壁の向こうに」
「それもそうだな」
「じゃあ決まりね」
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが——午後、彼はエルザに弟のフワンのことを尋ねていた。なぜそうしたのか、自分でもよく分からなかった。
エルザは嬉しそうに喋り続けた。
フワンは十四歳で、食べることが好きで、剣の稽古をさぼっては母親に怒られていて、でも犬には異様に懐かれる体質で、近所の犬が全員フワンの後をついて歩くせいで、街を歩くと犬の行列ができる。
「想像してみて。十四歳の少年の後ろに犬が七匹ついてくるのよ」
「……混乱するな」
「そうでしょ。でもフワン本人はすごく嬉しそうにしてるの。懐かれてる自分が誇らしいみたいで。ばかでしょ」
「……悪くない」
「え?」
「犬に懐かれる人間は、たいてい悪い奴じゃない」
エルザが黙った。
それから、ふふ、という小さな笑い声がした。
「なにそれ」
「事実だ」
「あなた、たまにすごく変なこと言うよね」
「変ではない」
「変よ。でも——」
エルザは少し間を置いた。
「——好きよ、そういうの」
マティアスは返事をしなかった。
窓の外で、花が揺れていた。
鎧の奥の、ごく小さな場所が——昨夜よりも少しだけ、確かに、温かくなっていた。
つづく




