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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第十一章 乳母と、クロイツァー伯と、旅立ちの日

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第一話「乳母の腕の中」


赤子は、よく眠る子だった。

泣くことが、少なかった。

乳母のグレーテは、そのことを、最初は喜んだ。

「手のかからない子ですね」と、屋敷の女中頭に言った。

女中頭は、少し複雑な顔をした。

「そう、かもしれないね」

それ以上は言わなかった。

グレーテは、その時はまだ、その言葉の意味が分からなかった。


屋敷は、大きかった。

石造りで、古かった。

クロイツァー伯爵家の本邸だった。

広間があり、書庫があり、庭があった。

庭には、季節ごとに花が咲いた。

赤子は、その庭を見渡せる部屋で育てられた。

乳母のグレーテが、常に付き添っていた。


伯爵は、月に数回、部屋を訪れた。

長居はしなかった。

赤子を見て、少しの間、黙って立っている。

それだけだった。

「お加減はいかがですか」とグレーテが聞くと、伯爵は「変わりないか」とだけ聞き返した。

「はい。よく眠り、よく飲みます」

「そうか」

伯爵は頷いて、部屋を出て行く。

それが、毎回だった。


グレーテは、伯爵のことをよく知らなかった。

使用人の間でも、伯爵の私生活について話す者は少なかった。

「昔、奥方を亡くされてから、ずっとお一人だ」と、古参の庭師が一度だけ話してくれた。

「子は」

「いない。だから、今度の赤子のことは、皆、驚いている」

「どこから来た子なのですか」

庭師は、少し言葉を濁した。

「詳しいことは、知らん方がいい」

それだけ言って、話を終えた。


グレーテは、それ以上聞かなかった。

赤子の世話に専念した。

夜中に目を覚ますと、あやした。

乳を与えた。

産着を替えた。

名前を呼んだ。

「マティアス」

その名は、生まれる前から決められていたようだった。

誰が決めたのかは、グレーテには分からなかった。

ただ、赤子はその名を呼ばれると、時々、じっとこちらを見返した。

まだ言葉の分からない年齢のはずなのに、その目には、何か、妙に静かなものがあった。


「変わった子だね」とグレーテは、独り言のように言った。

赤子は答えなかった。

当然だった。

それでも、グレーテには、聞かれているような気がした。


つづく


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