第一話「乳母の腕の中」
赤子は、よく眠る子だった。
泣くことが、少なかった。
乳母のグレーテは、そのことを、最初は喜んだ。
「手のかからない子ですね」と、屋敷の女中頭に言った。
女中頭は、少し複雑な顔をした。
「そう、かもしれないね」
それ以上は言わなかった。
グレーテは、その時はまだ、その言葉の意味が分からなかった。
屋敷は、大きかった。
石造りで、古かった。
クロイツァー伯爵家の本邸だった。
広間があり、書庫があり、庭があった。
庭には、季節ごとに花が咲いた。
赤子は、その庭を見渡せる部屋で育てられた。
乳母のグレーテが、常に付き添っていた。
伯爵は、月に数回、部屋を訪れた。
長居はしなかった。
赤子を見て、少しの間、黙って立っている。
それだけだった。
「お加減はいかがですか」とグレーテが聞くと、伯爵は「変わりないか」とだけ聞き返した。
「はい。よく眠り、よく飲みます」
「そうか」
伯爵は頷いて、部屋を出て行く。
それが、毎回だった。
グレーテは、伯爵のことをよく知らなかった。
使用人の間でも、伯爵の私生活について話す者は少なかった。
「昔、奥方を亡くされてから、ずっとお一人だ」と、古参の庭師が一度だけ話してくれた。
「子は」
「いない。だから、今度の赤子のことは、皆、驚いている」
「どこから来た子なのですか」
庭師は、少し言葉を濁した。
「詳しいことは、知らん方がいい」
それだけ言って、話を終えた。
グレーテは、それ以上聞かなかった。
赤子の世話に専念した。
夜中に目を覚ますと、あやした。
乳を与えた。
産着を替えた。
名前を呼んだ。
「マティアス」
その名は、生まれる前から決められていたようだった。
誰が決めたのかは、グレーテには分からなかった。
ただ、赤子はその名を呼ばれると、時々、じっとこちらを見返した。
まだ言葉の分からない年齢のはずなのに、その目には、何か、妙に静かなものがあった。
「変わった子だね」とグレーテは、独り言のように言った。
赤子は答えなかった。
当然だった。
それでも、グレーテには、聞かれているような気がした。
つづく




