第三話「女と、名乗らない夜」
戸を開けたのは、女だった。
旅装ではなかった。
そこに暮らしている者の格好だった。
だが、どこか、そぐわない気配があった。
言葉遣いか、立ち居振る舞いか。
うまく言えなかったが、村の女とは、何かが違った。
「一晩、泊めていただきたい」とカイルの父は言った。「道に迷った」
女は、しばらく、カイルの父を見ていた。
それから、静かに言った。
「どうぞ」
家の中は、質素だった。
質素だったが、荒れてはいなかった。
隅に、小さな揺り籠があった。
中に、赤子が眠っていた。
「お子さんですか」
「ええ」
「お一人で」
女は、少し間を置いた。
「今は」
それ以上は言わなかった。
カイルの父も、それ以上は聞かなかった。
夕食が出た。
質素だが、丁寧な食事だった。
「お名前を、伺っても」とカイルの父は言った。
女は、また少し間を置いた。
「……今は、名乗るものを、持っていません」
妙な答えだった。
だが、それ以上は追及しなかった。
追及しない方がいい気配が、その家には満ちていた。
食事の後、女は、赤子をあやしていた。
低い声で、何かを歌っていた。
言葉のない歌だった。
旋律だけの、静かな歌だった。
カイルの父は、その歌を聞いていた。
知らない歌だった。
だが、なぜか、どこかで聞いたことがある気がした。
理由は、分からなかった。
「良い歌ですね」
女は、歌うのをやめた。
カイルの父を見た。
少し驚いたような顔をしていた。
それから、静かに笑った。
「ありがとうございます」
「どこで覚えられたのですか」
女は、しばらく答えなかった。
それから、ごく短く言った。
「遠いところで」
それだけだった。
それ以上は、聞かなかった。
つづく




