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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第九章 フワンと、秘密の旋律

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第三話「持ち歩いているもの」


その夜、フワンは眠れなかった。

エルザには、何も言わなかった。

言えば、エルザも危険に巻き込まれる気がした。

それだけは、絶対に嫌だった。


マティアスへの手紙を書いたのは、その三日後だった。

全部は書かなかった。

書けることだけを、書いた。


「私が追い返しました」

それだけ書いて、ペンを止めた。

どうやって、と聞かれることは分かっていた。

答えを書くのに、また数日かかった。


カボチャを渡した。

それだけ書いた。

それ以上は、書けなかった。


理由は、自分でもよく分からなかった。

ただ、あの歌のことを、誰にも――マティアスにさえ――まだ、言葉にできなかった。


縁側で、マティアスに「持ち歩いているものは、どうしますか」と聞いた夜があった。

マティアスは「ここに持ち歩く」と言った。

「形にならなくても、持ち歩ける」と。


その言葉を、フワンは何度も思い出した。


エルザから教わった歌だった。

名前のない歌だった。

ヴェルタの防波堤で、見知らぬ女が、同じ歌を歌っていたと、マティアスの手紙に書いてあった。

偶然かもしれなかった。

偶然ではないかもしれなかった。


あの歌は、どこから来たのか。

なぜ、王都から人が来るのか。

なぜ、この歌を知っている人間を、誰かが探しているのか。


フワンには、まだ分からなかった。

分からないまま、持ち歩いていた。


ただ、一つだけ、分かっていることがあった。

エルザは、こう言っていた。


「フワン」

「なに」

「もし、誰かがこの歌のことを聞きに来たら」

「来たら?」

「逃げなさい。それから、誰も傷つけないで」


エルザの声は、震えていなかった。

フワンも、震えないようにしようと思った。

あの日、井戸端で、震えなかったのは、エルザとの約束のためだった。


秋の夜、縁側でマティアスに「重いか」と聞かれた時、フワンは「少し」と答えた。

本当は、少しではなかった。

でも、それ以上は言えなかった。

言葉にした瞬間、何かが、決まってしまう気がした。


あの歌が、どこから来たのか。

両親がどんな人だったのか。

なぜ、王都の人間が、自分を探しているのか。


それを言葉にする日は、まだ、来ていなかった。

ただ、いつか来る、という予感だけが、フワンの中にあった。


カボチャの種を、マティアスの引き出しに入れてもらった夜、フワンは少しだけ安心していた。

重いものの、ほんの一部でも、誰かの引き出しに入った気がしたから。


全部ではなかった。

ほんの少しだけだった。


それでも――それだけで、十分だった。


窓の外で、名前を知らない花の香りが、どこからか漂っていた。

フワンはその香りを、しばらく嗅いでいた。

それから、布団に入った。

旋律を、小さく、口の中だけで、なぞった。


誰にも聞かせなかった。

まだ、その時ではなかった。


つづく


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