第三話「持ち歩いているもの」
その夜、フワンは眠れなかった。
エルザには、何も言わなかった。
言えば、エルザも危険に巻き込まれる気がした。
それだけは、絶対に嫌だった。
マティアスへの手紙を書いたのは、その三日後だった。
全部は書かなかった。
書けることだけを、書いた。
「私が追い返しました」
それだけ書いて、ペンを止めた。
どうやって、と聞かれることは分かっていた。
答えを書くのに、また数日かかった。
カボチャを渡した。
それだけ書いた。
それ以上は、書けなかった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、あの歌のことを、誰にも――マティアスにさえ――まだ、言葉にできなかった。
縁側で、マティアスに「持ち歩いているものは、どうしますか」と聞いた夜があった。
マティアスは「ここに持ち歩く」と言った。
「形にならなくても、持ち歩ける」と。
その言葉を、フワンは何度も思い出した。
エルザから教わった歌だった。
名前のない歌だった。
ヴェルタの防波堤で、見知らぬ女が、同じ歌を歌っていたと、マティアスの手紙に書いてあった。
偶然かもしれなかった。
偶然ではないかもしれなかった。
あの歌は、どこから来たのか。
なぜ、王都から人が来るのか。
なぜ、この歌を知っている人間を、誰かが探しているのか。
フワンには、まだ分からなかった。
分からないまま、持ち歩いていた。
ただ、一つだけ、分かっていることがあった。
エルザは、こう言っていた。
「フワン」
「なに」
「もし、誰かがこの歌のことを聞きに来たら」
「来たら?」
「逃げなさい。それから、誰も傷つけないで」
エルザの声は、震えていなかった。
フワンも、震えないようにしようと思った。
あの日、井戸端で、震えなかったのは、エルザとの約束のためだった。
秋の夜、縁側でマティアスに「重いか」と聞かれた時、フワンは「少し」と答えた。
本当は、少しではなかった。
でも、それ以上は言えなかった。
言葉にした瞬間、何かが、決まってしまう気がした。
あの歌が、どこから来たのか。
両親がどんな人だったのか。
なぜ、王都の人間が、自分を探しているのか。
それを言葉にする日は、まだ、来ていなかった。
ただ、いつか来る、という予感だけが、フワンの中にあった。
カボチャの種を、マティアスの引き出しに入れてもらった夜、フワンは少しだけ安心していた。
重いものの、ほんの一部でも、誰かの引き出しに入った気がしたから。
全部ではなかった。
ほんの少しだけだった。
それでも――それだけで、十分だった。
窓の外で、名前を知らない花の香りが、どこからか漂っていた。
フワンはその香りを、しばらく嗅いでいた。
それから、布団に入った。
旋律を、小さく、口の中だけで、なぞった。
誰にも聞かせなかった。
まだ、その時ではなかった。
つづく




