第二話「噂と、不思議な訪問者」
エルザが十歳になった頃、村に、初めて、よそ者が長く滞在することがあった。
行商人だった。
年に一度か二度、村に立ち寄る男だった。
それまでは、品物を売って、すぐに帰っていった。
その年は、珍しく、三日ほど村に留まった。
「今年は、長くいるのね」とエルザは言った。
「ああ。少し、体の具合が悪くてな」と行商人は言った。
「大丈夫?」
「心配いらん。少し休めば、すぐ良くなる」
行商人は、村の宿屋のような場所(実際には、村長の家の離れだった)に泊まった。
エルザは、毎日、様子を見に行った。
フワンも、一緒についてきた。
「お前さんたち、優しいな」と行商人は言った。
「だって、心配だもの」とエルザは言った。
行商人は、しばらく、エルザとフワンを見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「この村は、不思議な村だな」
「不思議?」
「儂は、長年、あちこち回ってる。でも、この村ほど、平和な場所は、なかなかない」
「平和、ですか」
「争いがない。貧しいが、誰も飢えていない。よそ者にも、優しい」
エルザは、それを聞いて、少し誇らしい気持ちになった。
「でも」と行商人は、声を少し落とした。「不思議なことも、ある」
「何が不思議なの」
「この村のことを、儂は、よその誰にも、話したことがない」
「なんで?」
「なんとなく、話してはいけない気がしてな」
エルザは、その言葉に、少し首を傾げた。
意味が、よく分からなかった。
「お前さんたちは、この村が、特別な場所だと、聞いたことはあるか」
「特別?」
「いや」と行商人は、すぐに、言葉を打ち消した。「忘れてくれ。年寄りの戯言だ」
エルザは、その時は、それ以上、深く考えなかった。
子供だったから。
三日後、行商人は、村を去った。
去り際、エルザに、小さな飴を一つ、くれた。
「ありがとう」とエルザは言った。
「達者でな、嬢ちゃん」
行商人は、フワンの頭も、軽く撫でた。
「お前さんも、達者でな」
行商人が去った後、エルザは、村長に聞いてみた。
「この村って、特別なの?」
村長は、少し驚いた顔をした。
「誰が、そんなことを言った」
「行商人さんが」
村長は、しばらく、考えるような顔をした。
「特別かどうかは、儂には分からん」と村長は言った。「ただ、この村は、ずっと前から、誰にも邪魔されずに、ここにある」
「邪魔されない、って」
「分からんでいい」と村長は言った。「お前は、ただ、ここで、元気に育てばいい」
エルザは、それ以上、聞かなかった。
子供心に、これ以上聞いてはいけない、という空気を、感じ取っていた。
それでも、その日から、村のことが、少しだけ、不思議に思えるようになった。
ある夜、フワンが、寝床で、聞いてきた。
「エルザ、この村って、変なの?」
「変じゃないわよ」
「行商人のおじさん、変なこと言ってたよね」
「聞いてたの」
「うん。聞こえちゃった」
エルザは、しばらく考えた。
「分からないけど」とエルザは言った。「変じゃなくていいの。私たちには、ここしかないんだから」
「うん」
「ここが、私たちの村よ」
フワンは、小さく頷いた。
それから、すぐに眠ってしまった。
エルザは、しばらく、暗い天井を見ていた。
行商人の言葉が、頭の片隅に、引っかかっていた。
話してはいけない気がする。
特別な場所。
誰にも邪魔されない。
エルザには、その意味は、まだ分からなかった。
それでも、いつか、その言葉の意味を、知る日が来るような、漠然とした予感が、あった。
窓の外で、白い花の香りが、風に運ばれてきた。
名前を知らない花の香りだった。
それで十分だった。
今は、まだ、それで十分だった。
つづく




