第一話「小さな村と、二人の子供」
ヴァイス村は、地図に載っていない小さな村だった。
石造りの家が十軒ほど。
広場に井戸が一つ。
それだけの村だった。
エルザは、その村で生まれ育った。
物心ついた頃から、村の外を知らなかった。
両親は、エルザがまだ幼い頃に、相次いで亡くなったと聞かされた。
父はある日いなくなった。
母はその少し後に、後を追うように。
エルザの記憶の中の母は、いつも窓辺に座って、空を見ていた姿だった。
「お母さん、何見てるの」
「空」
「空に何かあるの」
母は、しばらく答えなかった。
それから、静かに笑った。
「ないわ。だから見てるの」
幼いエルザには、その意味が分からなかった。
今でも、本当には分かっていない気がした。
弟のフワンは、母が亡くなる少し前に生まれた。
エルザより、五つ下だった。
両親を失ってから、村の人々が、二人を育ててくれた。
誰か一人の家に引き取られたわけではなかった。
村全体が、ゆるやかに、二人の面倒を見た。
ある家で夕食を食べ、別の家で寝かせてもらい、また別の家で着替えを用意してもらう。
そういう暮らしだった。
不安定なようでいて、エルザにとっては、それが当たり前だった。
「エルザ、フワンの手を離さないでね」
村の女たちは、よくそう言った。
エルザは、フワンの手を、いつも握っていた。
フワンは、まだ歩くのもおぼつかない頃から、エルザの後ろを、よちよちとついて回った。
「えーじゃ」
フワンが、初めて覚えた言葉だった。
まだ「エルザ」と、うまく言えなかった。
村の周りには、白い花が咲いていた。
名前を知らない花だった。
誰が植えたのかも、分からなかった。
物心ついた時には、もう、村のあちこちに咲いていた。
「この花、誰が植えたの」と、エルザは、村の老人に聞いたことがあった。
老人は、しばらく考えた。
「分からんな。気づいたら咲いていた」
「不思議ね」
「不思議なことなんて、世の中にはいくらでもある」
老人は、それ以上、深く考えなかった。
エルザも、それ以上は聞かなかった。
村には、不思議なことが、もう一つあった。
村の外から、めったに人が来なかった。
来ても、すぐに帰っていった。
長く滞在する者は、誰もいなかった。
「この村って、誰も知らないのかな」とエルザは、ある日、フワンに聞いた。
フワンは、まだ五歳だった。
「知らないんじゃない」とフワンは言った。「だって、誰も来ないもん」
「来ないと、知られてないってこと?」
「分からない」とフワンは言った。「でも、来ないなら、誰かが来ないようにしてるんじゃない」
エルザは、その言葉に、少し驚いた。
五歳の弟にしては、妙に的を射ていた。
「フワン、頭いいのね」
「エルザの方が、頭いいよ」
「そんなことないわよ」
フワンは、にやにやした。
その頃から、フワンは、にやにやする子供だった。
村には、犬が何匹もいた。
誰の犬とも決まっていなかった。
村全体の犬だった。
エルザとフワンは、その犬たちと、毎日のように遊んだ。
「ルドルフ、待て」
エルザが言うと、一匹の犬が、ぴたりと止まった。
「すごい、エルザ」
「簡単よ」
「ぼくにもやらせて」
フワンは、必死に犬に向かって「待て」と言った。
犬は、まったく言うことを聞かなかった。
「なんでだろう」
「フワンの言い方が弱いのよ」
「強く言ってみる」
フワンは、もう一度、大きな声で言った。
犬は、それでも動かなかった。
たまたま、別の方向を見ていただけだった。
「待ててる!」とフワンは喜んだ。
「待ててないわよ、勝手に止まってるだけよ」
「待ててる!」
エルザは、笑った。
フワンも、にやにやしながら笑った。
夕方になると、村の広場に、子供たちが集まった。
エルザは、年上の子供たちにも、物怖じせずに話しかけた。
明るく、よく笑う子供だった。
「エルザは、いつも元気だね」と、村の女たちは、よく言った。
「元気じゃないとね」とエルザは答えた。「フワンの分も、元気でいないと」
それは、誰かに言われた言葉ではなかった。
エルザが、自分で、自然に、そう思うようになった言葉だった。
両親がいない分、自分が、フワンの分まで、強くいなければならない。
幼いながらに、そう感じていた。
夜、二人で眠る前、フワンが、よく聞いてきた。
「エルザ、お父さんとお母さんって、どんな人だったの」
エルザは、覚えている限りのことを、フワンに話した。
母が窓辺で空を見ていたこと。
父が、よく笑う人だったこと。
「会いたかったな」とフワンは言った。
「会えなかったわね」
「エルザは、覚えてるからいいね」
「フワンも、お母さんのお腹の中にいた時は、一緒にいたのよ」
「覚えてないよ、そんなの」
「そうね」
エルザは、フワンの頭を撫でた。
フワンは、すぐに眠ってしまった。
エルザは、しばらく、その寝顔を見ていた。
村は、小さくて、貧しくて、それでも、温かかった。
誰かが、いつも、二人を見守っていた。
白い花が、季節ごとに、変わらず咲いていた。
エルザは、その村で、自分の人生が、ずっとこのまま続くと、思っていた。
つづく




