第五話「峠の老婆と、捨てられた名前」
山が見えてきた。東への道は、その山を越えなければならなかった。峠道は険しかった。何日もかけて少しずつ登った。
ある日、道の途中に小さな庵があった。老婆が一人で住んでいた。イレーネは水を分けてもらおうと立ち寄った。
「水が欲しいだと?」老婆はイレーネを上から下まで見た。「珍しい身なりだね」
イレーネの旅装は、すでにボロボロだった。それでも老婆の目には、何かが見えているようだった。
「お入り」と老婆は言った。「少し休んでいきな」
庵の中は薬草の匂いがした。壁一面に、乾燥させた草が吊るされていた。
「薬師、ですか」
「そんなようなものさ。この辺りじゃ、医者と呼べるのは私くらいのもんだ」
老婆は湯を沸かし、薬草茶を出してくれた。イレーネはそれを飲んだ。苦かったが体に染みた。
「お前さん、名前は」
イレーネは少し迷った。
「……マルスと、呼んでください」
老婆はしばらくイレーネを見た。それからふっと笑った。
「嘘の名前だね」
イレーネは息を呑んだ。
「……分かるのですか」
「長く生きてりゃ、分かるさ。嘘の名前ってのは、言う時に一瞬、間ができる」
イレーネは何も言えなかった。
「いいさ」と老婆は言った。「本当の名前を聞こうとは思わない。誰だって、捨てたい名前の一つや二つあるもんだ」
老婆は薬草を束ねながら続けた。
「私もね、若い頃、名前を捨てたことがある」
「……どうしてですか」
「色々あったのさ。今となっては、もう思い出すのも面倒なくらい昔の話だ」
イレーネは老婆の手を見た。皺だらけの、しかしてきぱきと動く手だった。
「名前を捨てて、楽になりましたか」
老婆は少し考えた。
「楽には、ならなかったね。ただ、新しい名前で新しい生き方を始められた」
「新しい生き方」
「そうさ。名前ってのは過去を背負うものだ。でも新しい名前は、これからを背負うものになる」
イレーネはしばらく、その言葉を噛みしめた。
「お前さんも、これから新しい何かを始めるんだろう」
「……分かりません。ただ歩いているだけです」
「歩いているなら、それでいい」と老婆は言った。「行き先が分からなくても、足が動いているなら、それは何かに向かっているということだ」
その夜、イレーネは庵に泊めてもらった。
翌朝、出発する前、老婆が布の包みを渡してきた。
「薬草だ。傷や熱に効く。持っていきな」
「いただけません、これ以上は」
「持っていけ」と老婆は、もう一度言った。「お前さんの旅は、まだ長いだろう」
イレーネは頭を下げた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんだい」
「あなたが捨てた、本当の名前は」
老婆は少し、遠くを見るような目をした。
「……もう、忘れたよ」
それは嘘だと、イレーネには分かった。それでも、それ以上は聞かなかった。
庵を出る前、庭の隅に種を一粒植えた。老婆がそれを見ていた。
「花の種か」
「はい」
「名前は」
「ありません」
老婆は少し笑った。
「お前さんらしい花だね」
イレーネはその言葉に、初めて自分のことを少しだけ理解された気がした。
「ありがとうございました」
「達者でな」
歩き始めた。峠を登り続けた。頂上に着いたのは、その日の夕方だった。そこから見える景色は、これまでの旅で見た、どの景色よりも広かった。西を見れば楯の国の方角。東を見れば、礎の国のまだ見ぬ土地。
イレーネはしばらく、その景色を見ていた。
「捨てた名前」と呟いてみた。
イレーネ、という名前は、まだ捨てていなかった。ただ誰にも、その名を名乗っていないだけだった。
花の名前は、もう捨てた。フワン草、とはもう呼ばない。これからは、名前のない花だった。
それでも何かが少しずつ、変わっている気がした。
歩き始めた。東へ。下りの道を。
それで十分だった。
第七章 完




