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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第七章 東と、名前のない花と、誰も知らない妃殿下

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第五話「峠の老婆と、捨てられた名前」


山が見えてきた。東への道は、その山を越えなければならなかった。峠道は険しかった。何日もかけて少しずつ登った。

ある日、道の途中に小さな庵があった。老婆が一人で住んでいた。イレーネは水を分けてもらおうと立ち寄った。

「水が欲しいだと?」老婆はイレーネを上から下まで見た。「珍しい身なりだね」

イレーネの旅装は、すでにボロボロだった。それでも老婆の目には、何かが見えているようだった。

「お入り」と老婆は言った。「少し休んでいきな」

庵の中は薬草の匂いがした。壁一面に、乾燥させた草が吊るされていた。

「薬師、ですか」

「そんなようなものさ。この辺りじゃ、医者と呼べるのは私くらいのもんだ」

老婆は湯を沸かし、薬草茶を出してくれた。イレーネはそれを飲んだ。苦かったが体に染みた。

「お前さん、名前は」

イレーネは少し迷った。

「……マルスと、呼んでください」

老婆はしばらくイレーネを見た。それからふっと笑った。

「嘘の名前だね」

イレーネは息を呑んだ。

「……分かるのですか」

「長く生きてりゃ、分かるさ。嘘の名前ってのは、言う時に一瞬、間ができる」

イレーネは何も言えなかった。

「いいさ」と老婆は言った。「本当の名前を聞こうとは思わない。誰だって、捨てたい名前の一つや二つあるもんだ」

老婆は薬草を束ねながら続けた。

「私もね、若い頃、名前を捨てたことがある」

「……どうしてですか」

「色々あったのさ。今となっては、もう思い出すのも面倒なくらい昔の話だ」

イレーネは老婆の手を見た。皺だらけの、しかしてきぱきと動く手だった。

「名前を捨てて、楽になりましたか」

老婆は少し考えた。

「楽には、ならなかったね。ただ、新しい名前で新しい生き方を始められた」

「新しい生き方」

「そうさ。名前ってのは過去を背負うものだ。でも新しい名前は、これからを背負うものになる」

イレーネはしばらく、その言葉を噛みしめた。

「お前さんも、これから新しい何かを始めるんだろう」

「……分かりません。ただ歩いているだけです」

「歩いているなら、それでいい」と老婆は言った。「行き先が分からなくても、足が動いているなら、それは何かに向かっているということだ」

その夜、イレーネは庵に泊めてもらった。

翌朝、出発する前、老婆が布の包みを渡してきた。

「薬草だ。傷や熱に効く。持っていきな」

「いただけません、これ以上は」

「持っていけ」と老婆は、もう一度言った。「お前さんの旅は、まだ長いだろう」

イレーネは頭を下げた。

「一つだけ、聞いてもいいですか」

「なんだい」

「あなたが捨てた、本当の名前は」

老婆は少し、遠くを見るような目をした。

「……もう、忘れたよ」

それは嘘だと、イレーネには分かった。それでも、それ以上は聞かなかった。

庵を出る前、庭の隅に種を一粒植えた。老婆がそれを見ていた。

「花の種か」

「はい」

「名前は」

「ありません」

老婆は少し笑った。

「お前さんらしい花だね」

イレーネはその言葉に、初めて自分のことを少しだけ理解された気がした。

「ありがとうございました」

「達者でな」

歩き始めた。峠を登り続けた。頂上に着いたのは、その日の夕方だった。そこから見える景色は、これまでの旅で見た、どの景色よりも広かった。西を見れば楯の国の方角。東を見れば、礎の国のまだ見ぬ土地。

イレーネはしばらく、その景色を見ていた。

「捨てた名前」と呟いてみた。

イレーネ、という名前は、まだ捨てていなかった。ただ誰にも、その名を名乗っていないだけだった。

花の名前は、もう捨てた。フワン草、とはもう呼ばない。これからは、名前のない花だった。

それでも何かが少しずつ、変わっている気がした。

歩き始めた。東へ。下りの道を。

それで十分だった。


 第七章 完



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