第四話「雨と、見知らぬ女との一夜」
雨が三日続いた。道はぬかるんだ。イレーネの旅装は泥だらけになった。靴はすでに底が薄くなっていた。歩く速度が落ちた。それでも止まらなかった。
四日目の夜、雨脚が強くなった。イレーネは雨宿りできる場所を探した。木の下では、もう防ぎきれなかった。
遠くに灯りが見えた。小さな家だった。イレーネはそこへ向かった。戸を叩いた。
しばらくして戸が開いた。出てきたのは一人の女だった。イレーネと同じくらいの年頃に見えた。腹が大きかった。
「……どなた」
「すみません。雨宿りをさせていただけませんか」
女はイレーネの姿を見た。泥だらけの旅装。やつれた顔。それでも隠しきれない、何かがあった。
女はしばらく迷った。それから戸を大きく開けた。
「お入りください」
家の中は狭かったが暖かかった。暖炉に火があった。イレーネはその火の前に座らせてもらった。
「ありがとうございます」
「いいえ。こんな雨の中、放っておけません」
女は湯を沸かし始めた。動きが少し辛そうだった。腹がよほど大きいのだろう。
「お手伝いします」とイレーネは言った。
「いいえ、お客様に——」
「お願いします。何もしないでいると、落ち着きません」
女は少し驚いた顔をした。それから頷いた。
「では、その鍋を火にかけてください」
イレーネは鍋を持った。重かった。でも、できた。ここ数日で少しずつ、こういうことに慣れてきていた。
スープができた。二人でそれを飲んだ。温かかった。
「ご主人は」とイレーネは聞いた。
女の顔が少し曇った。
「漁に出ています。もう三日になります」
「漁、ですか」
「海が近いので」
「危険な仕事ですか」
「ええ。でも、それしかできることがないので」
イレーネは何も言えなかった。
「お腹の子は」とイレーネは聞いた。
女は少し笑った。
「もうすぐです。あと、ひと月もすれば」
「不安ですか」
「不安です」と女は素直に言った。「夫がいない時に、来てしまったら、どうしようと」
イレーネはしばらく、女の腹を見ていた。自分も、いつか——そんな考えが頭をよぎった。すぐに打ち消した。今は考えてはいけないことだった。
「お一人で産むことになったら」
「近所に産婆がいます。呼びに行けば来てくれます」
「そうですか」
「あなたは」と女が聞いた。「どちらへ向かっているのですか」
イレーネは少し迷った。
「東へ」
「ご家族は」
「……いません」
女はそれ以上聞かなかった。ただ静かに頷いた。
その夜、イレーネは暖炉の傍で眠らせてもらった。女は寝室で休んだ。
夜中、物音で目が覚めた。女がうめいていた。
「大丈夫ですか」
「……分かりません。お腹が」
イレーネはすぐに女の傍に行った。
「産婆さんは、どちらに」
「……村の外れです。でも、この雨で」
「行ってきます」
イレーネは雨の中へ飛び出した。道はぬかるみ、何度も転びそうになった。それでも走り続けた。
ようやく産婆の家に辿り着いた。戸を叩き、事情を必死に伝えた。産婆はすぐに支度をした。二人で雨の中を戻った。
家に着くと、女の様子は切迫していた。
「もう少しの辛抱だよ」
産婆は慣れた様子で女に声をかけた。イレーネは産婆の指示に従い、湯を沸かし、布を用意した。
何度も女が痛みに叫んだ。イレーネはその手を握り続けた。
夜明け前、小さな泣き声が家の中に響いた。女の子だった。女は疲れ果てた顔で笑った。
「……ありがとうございます」
「私は、何もしていません」
「いいえ。手を握っていてくれました」
イレーネは生まれたばかりの赤子を見た。小さな、小さな命だった。
「名前は」とイレーネは聞いた。
女はしばらく赤子を見ていた。
「夫が帰ってきてから、決めます」
イレーネは頷いた。それが正しいと思った。
雨がやんでいた。朝の光が窓から差し込んでいた。
イレーネはその朝、家を出ることにした。
「もう、行かれるのですか」
女は寝台の上から、力なく声をかけた。
「はい。これ以上、ご迷惑をかけられません」
「迷惑だなんて……」
産婆が女の傍らで首を振った。
「今は横になっていな。体が、まだ戻っていないんだから」
女は頷き、それでもイレーネを見つめた。
「ありがとうございました」と女は言った。「あなたが、いてくれて、よかった」
イレーネは何も言えなかった。ただ頭を下げた。
「お名前を、伺っても」と女が聞いた。
イレーネは少し迷った。それから初めて偽名を使った。
「……マルスと、お呼びください」
女は頷いた。
「マルスさん。この子の名前を決める時、参考にさせてください」
イレーネは少し驚いた。それから静かに微笑んだ。
「良い名前が、見つかりますように」
戸口で、産婆がイレーネを見送った。家の前の土に種を一粒植えた。
「これは」と産婆が聞いた。
「花の種です。いつか、咲きます」
産婆はそれを見て、小さく頷いた。
歩き始めた。東へ。振り返ると、産婆が戸口に立ったまま、まだこちらを見ていた。小さく頷いた。イレーネも頭を下げ、それに応えた。
それで十分だった。誰かの命の始まりに立ち会えたことが、この長い旅の中で初めての、確かな温もりだった。
つづく




