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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第七章 東と、名前のない花と、誰も知らない妃殿下

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第四話「雨と、見知らぬ女との一夜」


雨が三日続いた。道はぬかるんだ。イレーネの旅装は泥だらけになった。靴はすでに底が薄くなっていた。歩く速度が落ちた。それでも止まらなかった。

四日目の夜、雨脚が強くなった。イレーネは雨宿りできる場所を探した。木の下では、もう防ぎきれなかった。

遠くに灯りが見えた。小さな家だった。イレーネはそこへ向かった。戸を叩いた。

しばらくして戸が開いた。出てきたのは一人の女だった。イレーネと同じくらいの年頃に見えた。腹が大きかった。

「……どなた」

「すみません。雨宿りをさせていただけませんか」

女はイレーネの姿を見た。泥だらけの旅装。やつれた顔。それでも隠しきれない、何かがあった。

女はしばらく迷った。それから戸を大きく開けた。

「お入りください」

家の中は狭かったが暖かかった。暖炉に火があった。イレーネはその火の前に座らせてもらった。

「ありがとうございます」

「いいえ。こんな雨の中、放っておけません」

女は湯を沸かし始めた。動きが少し辛そうだった。腹がよほど大きいのだろう。

「お手伝いします」とイレーネは言った。

「いいえ、お客様に——」

「お願いします。何もしないでいると、落ち着きません」

女は少し驚いた顔をした。それから頷いた。

「では、その鍋を火にかけてください」

イレーネは鍋を持った。重かった。でも、できた。ここ数日で少しずつ、こういうことに慣れてきていた。

スープができた。二人でそれを飲んだ。温かかった。

「ご主人は」とイレーネは聞いた。

女の顔が少し曇った。

「漁に出ています。もう三日になります」

「漁、ですか」

「海が近いので」

「危険な仕事ですか」

「ええ。でも、それしかできることがないので」

イレーネは何も言えなかった。

「お腹の子は」とイレーネは聞いた。

女は少し笑った。

「もうすぐです。あと、ひと月もすれば」

「不安ですか」

「不安です」と女は素直に言った。「夫がいない時に、来てしまったら、どうしようと」

イレーネはしばらく、女の腹を見ていた。自分も、いつか——そんな考えが頭をよぎった。すぐに打ち消した。今は考えてはいけないことだった。

「お一人で産むことになったら」

「近所に産婆がいます。呼びに行けば来てくれます」

「そうですか」

「あなたは」と女が聞いた。「どちらへ向かっているのですか」

イレーネは少し迷った。

「東へ」

「ご家族は」

「……いません」

女はそれ以上聞かなかった。ただ静かに頷いた。

その夜、イレーネは暖炉の傍で眠らせてもらった。女は寝室で休んだ。

夜中、物音で目が覚めた。女がうめいていた。

「大丈夫ですか」

「……分かりません。お腹が」

イレーネはすぐに女の傍に行った。

「産婆さんは、どちらに」

「……村の外れです。でも、この雨で」

「行ってきます」

イレーネは雨の中へ飛び出した。道はぬかるみ、何度も転びそうになった。それでも走り続けた。

ようやく産婆の家に辿り着いた。戸を叩き、事情を必死に伝えた。産婆はすぐに支度をした。二人で雨の中を戻った。

家に着くと、女の様子は切迫していた。

「もう少しの辛抱だよ」

産婆は慣れた様子で女に声をかけた。イレーネは産婆の指示に従い、湯を沸かし、布を用意した。

何度も女が痛みに叫んだ。イレーネはその手を握り続けた。

夜明け前、小さな泣き声が家の中に響いた。女の子だった。女は疲れ果てた顔で笑った。

「……ありがとうございます」

「私は、何もしていません」

「いいえ。手を握っていてくれました」

イレーネは生まれたばかりの赤子を見た。小さな、小さな命だった。

「名前は」とイレーネは聞いた。

女はしばらく赤子を見ていた。

「夫が帰ってきてから、決めます」

イレーネは頷いた。それが正しいと思った。

雨がやんでいた。朝の光が窓から差し込んでいた。

イレーネはその朝、家を出ることにした。

「もう、行かれるのですか」

女は寝台の上から、力なく声をかけた。

「はい。これ以上、ご迷惑をかけられません」

「迷惑だなんて……」

産婆が女の傍らで首を振った。

「今は横になっていな。体が、まだ戻っていないんだから」

女は頷き、それでもイレーネを見つめた。

「ありがとうございました」と女は言った。「あなたが、いてくれて、よかった」

イレーネは何も言えなかった。ただ頭を下げた。

「お名前を、伺っても」と女が聞いた。

イレーネは少し迷った。それから初めて偽名を使った。

「……マルスと、お呼びください」

女は頷いた。

「マルスさん。この子の名前を決める時、参考にさせてください」

イレーネは少し驚いた。それから静かに微笑んだ。

「良い名前が、見つかりますように」

戸口で、産婆がイレーネを見送った。家の前の土に種を一粒植えた。

「これは」と産婆が聞いた。

「花の種です。いつか、咲きます」

産婆はそれを見て、小さく頷いた。

歩き始めた。東へ。振り返ると、産婆が戸口に立ったまま、まだこちらを見ていた。小さく頷いた。イレーネも頭を下げ、それに応えた。

それで十分だった。誰かの命の始まりに立ち会えたことが、この長い旅の中で初めての、確かな温もりだった。


つづく



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