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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第七章 東と、名前のない花と、誰も知らない妃殿下

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第三話「町の市場と、売られなかった指輪」


一週間歩いた。足の痛みは、もう感覚が麻痺していた。

持ってきた銀貨はわずかだった。城を出る時、必要最低限しか持たなかった。それも、もう底をつきかけていた。

ある町に着いた。礎の国の、小さな町だった。市場があった。人々が忙しく行き交っていた。

イレーネはその喧騒を、しばらく眺めていた。こんな場所に来たことは一度もなかった。城の中からは見えない世界だった。

空腹だった。何日も、まともに食べていなかった。

イレーネは指から指輪を抜いた。唯一持ってきた装飾品だった。祖母の形見だった。

市場の隅に宝石商の店があった。店主は年配の男だった。イレーネは指輪を差し出した。

「これを、買い取っていただけますか」

店主は指輪を手に取った。ためつすがめつ、しばらく見ていた。

「いい品だ」と店主は言った。「古いが、丁寧な細工だ」

「祖母のものです」

「家宝か」

「……そうかもしれません」

店主はしばらく、イレーネの顔を見た。それから、また指輪を見た。

「悪いことは言わん」と店主は言った。「これは売らない方がいい」

イレーネは少し止まった。

「なぜですか」

「家宝を手放すのは、最後の最後にすることだ。今手放したら、後で後悔する」

イレーネは何も言えなかった。空腹で頭がぼんやりしていた。それでも店主の言葉は、心のどこかに届いた。

「では、何か仕事はありませんか」

店主は少し驚いた顔をした。

「仕事、とは」

「働かせていただけませんか。指輪を売る代わりに」

店主はしばらくイレーネを見た。旅装は汚れていたが、立ち姿には隠しきれない品があった。それが、かえって店主の警戒心を呼んだ。

「お前さん、どこの出だ」

「……西の方です」

「貴族の出だろう」

イレーネは答えなかった。答えないことが答えだった。

店主は長い間、考えていた。それからため息をついた。

「裏で荷物の整理を手伝え。それで今日のパンくらいは出してやる」

イレーネは頭を下げた。

「ありがとうございます」

その日、イレーネは初めて自分の手で働いた。荷物を運び、棚を整理し、店主の指示に従った。不慣れな手つきだった。何度も物を落とした。店主はその度にため息をついたが、怒鳴ることはなかった。

夕方、パンとスープをもらった。温かかった。イレーネはそれをゆっくりと食べた。こんなに美味しいと感じたことは、今までなかった。

「美味しいです」とイレーネは言った。

店主は少し驚いた顔をした。

「ただのパンとスープだ」

「美味しいです」

店主は何も言わなかった。ただ少しだけ、口の端を上げた。

その夜、店の裏の物置で寝かせてもらった。わずかな空間だったが屋根があった。イレーネは布袋を抱えて横になった。種の音が、からから、と鳴った。

翌朝、出発する前に、店の裏庭に種を一粒植えた。店主がそれを見ていた。

「なんだそれは」

「花の種です。名前のない白い花が咲きます」

「花の種か」

「すみません、断りもなく」

「いや」と店主は言った。「いい。咲いたら、また来い」

イレーネは少し止まった。

「また来てもいいのですか」

「ここは商売の店だ。客は誰でも歓迎する」

それは優しさを商売の言葉で隠した言い方だった。イレーネには、それが分かった。

「ありがとうございます」

「礼はいい。それより」

店主は何かを差し出した。小さな布の包みだった。

「パンだ。持っていけ」

「いただけません、これ以上は」

「持っていけ」と店主は、もう一度言った。「お前さんの祖母の指輪は家宝だ。簡単に手放すものじゃない。だが、パン一つくらいは受け取れ」

イレーネはしばらく店主を見ていた。それから頭を下げた。深く、長く下げた。

「いただきます」

歩き始めた。東へ。指輪はまだ指にあった。パンは布袋の中にあった。種は、また一つ、土に残してきた。

それで十分だった。誰かの優しさに触れるたび、少しだけ東へ進む力が湧いた。


つづく



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