第三話「町の市場と、売られなかった指輪」
一週間歩いた。足の痛みは、もう感覚が麻痺していた。
持ってきた銀貨はわずかだった。城を出る時、必要最低限しか持たなかった。それも、もう底をつきかけていた。
ある町に着いた。礎の国の、小さな町だった。市場があった。人々が忙しく行き交っていた。
イレーネはその喧騒を、しばらく眺めていた。こんな場所に来たことは一度もなかった。城の中からは見えない世界だった。
空腹だった。何日も、まともに食べていなかった。
イレーネは指から指輪を抜いた。唯一持ってきた装飾品だった。祖母の形見だった。
市場の隅に宝石商の店があった。店主は年配の男だった。イレーネは指輪を差し出した。
「これを、買い取っていただけますか」
店主は指輪を手に取った。ためつすがめつ、しばらく見ていた。
「いい品だ」と店主は言った。「古いが、丁寧な細工だ」
「祖母のものです」
「家宝か」
「……そうかもしれません」
店主はしばらく、イレーネの顔を見た。それから、また指輪を見た。
「悪いことは言わん」と店主は言った。「これは売らない方がいい」
イレーネは少し止まった。
「なぜですか」
「家宝を手放すのは、最後の最後にすることだ。今手放したら、後で後悔する」
イレーネは何も言えなかった。空腹で頭がぼんやりしていた。それでも店主の言葉は、心のどこかに届いた。
「では、何か仕事はありませんか」
店主は少し驚いた顔をした。
「仕事、とは」
「働かせていただけませんか。指輪を売る代わりに」
店主はしばらくイレーネを見た。旅装は汚れていたが、立ち姿には隠しきれない品があった。それが、かえって店主の警戒心を呼んだ。
「お前さん、どこの出だ」
「……西の方です」
「貴族の出だろう」
イレーネは答えなかった。答えないことが答えだった。
店主は長い間、考えていた。それからため息をついた。
「裏で荷物の整理を手伝え。それで今日のパンくらいは出してやる」
イレーネは頭を下げた。
「ありがとうございます」
その日、イレーネは初めて自分の手で働いた。荷物を運び、棚を整理し、店主の指示に従った。不慣れな手つきだった。何度も物を落とした。店主はその度にため息をついたが、怒鳴ることはなかった。
夕方、パンとスープをもらった。温かかった。イレーネはそれをゆっくりと食べた。こんなに美味しいと感じたことは、今までなかった。
「美味しいです」とイレーネは言った。
店主は少し驚いた顔をした。
「ただのパンとスープだ」
「美味しいです」
店主は何も言わなかった。ただ少しだけ、口の端を上げた。
その夜、店の裏の物置で寝かせてもらった。わずかな空間だったが屋根があった。イレーネは布袋を抱えて横になった。種の音が、からから、と鳴った。
翌朝、出発する前に、店の裏庭に種を一粒植えた。店主がそれを見ていた。
「なんだそれは」
「花の種です。名前のない白い花が咲きます」
「花の種か」
「すみません、断りもなく」
「いや」と店主は言った。「いい。咲いたら、また来い」
イレーネは少し止まった。
「また来てもいいのですか」
「ここは商売の店だ。客は誰でも歓迎する」
それは優しさを商売の言葉で隠した言い方だった。イレーネには、それが分かった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより」
店主は何かを差し出した。小さな布の包みだった。
「パンだ。持っていけ」
「いただけません、これ以上は」
「持っていけ」と店主は、もう一度言った。「お前さんの祖母の指輪は家宝だ。簡単に手放すものじゃない。だが、パン一つくらいは受け取れ」
イレーネはしばらく店主を見ていた。それから頭を下げた。深く、長く下げた。
「いただきます」
歩き始めた。東へ。指輪はまだ指にあった。パンは布袋の中にあった。種は、また一つ、土に残してきた。
それで十分だった。誰かの優しさに触れるたび、少しだけ東へ進む力が湧いた。
つづく




