第二話「最初の夜と、礎の国の言葉」
東へ、三日歩いた。道は最初のうちは舗装されていた。やがて土になった。やがて、けもの道のようになった。
イレーネは足が痛んだ。城の中では、こんなに長く歩いたことがなかった。靴はすぐに傷んだ。それでも止まらなかった。
三日目の夕方、国境を越えた。誰にも咎められなかった。誰も見ていなかった。
国境の標識は古い石碑だった。片側に楯の国の紋章、もう片側に礎の国の紋章が刻まれていた。イレーネはその石碑の前で、しばらく立ち止まった。
「越えてしまった」
声に出して言ってみた。実感が、まだなかった。
夜になった。森の中で野宿することにした。焚き火を起こそうとしたが、上手くいかなかった。火打ち石の使い方を知らなかった。そんなことすら知らずに生きてきた。
「……情けないわね」
何度目かの失敗の後、ようやく小さな火がついた。イレーネはその小さな炎を、長い間、見ていた。
遠くで物音がした。イレーネは身構えた。
出てきたのは一人の老人だった。薪を担いでいた。
「おや」と老人は言った。「珍しいな、こんな場所に」
イレーネは何も言えなかった。言葉が出なかった。
老人はイレーネの旅装を見た。それから火を見た。下手な火だった。
「お前さん、火の起こし方を知らんな」
「……はい」
「どこから来た」
イレーネは少し迷った。それから言った。
「西から」
老人はそれ以上聞かなかった。薪を火の傍に置いた。
「これを使え。お前さんの拾った枝は湿っている」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
老人は火を直しながら、ぽつりと言った。
「礎の国の言葉、話せるんだな」
イレーネは少し止まった。楯の国と礎の国の言葉は似ていたが、完全には同じではなかった。わずかなアクセントの違いで出自が分かることがあった。
「……分かりますか」
「分かる。お前さん、楯の言葉の訛りがある」
イレーネは何も言わなかった。
老人はしばらく火を見ていた。それから静かに言った。
「逃げてきたのか」
イレーネは答えなかった。答えないことが答えだった。
「まあ、いい」と老人は言った。「理由は聞かん。聞いても、お前さんが楽になるわけじゃない」
イレーネはその言葉に少し驚いた。
「……ありがとうございます」
「礼はいいと言った」
老人は火に薪を一本足した。炎が少し大きくなった。
「お前さん、これからどこへ行く」
「決めていません」
それは半分だけ本当だった。行き先はあった。ただ、誰にも言うつもりがなかった。
「決めていない、とは」
「歩いた先が行き先になります」
老人はしばらくイレーネを見た。それから小さく笑った。
「変わった女だ」
「そうかもしれません」
老人は立ち上がった。
「ここいらは夜になると獣が出る。今夜は、この近くの小屋で休め」
「ご迷惑では」
「迷惑というほどのものでもない」
老人について、小さな小屋へ向かった。木こりの仕事小屋だった。粗末だったが雨風はしのげた。
「明日には出ていけ」
「分かりました」
「火の起こし方くらい、覚えていけ」
「……教えていただけますか」
老人は少し意外そうな顔をした。それから頷いた。
「いいだろう」
その夜、イレーネは火の起こし方を教わった。火打ち石の角度。乾いた枝の選び方。風の読み方。何度も失敗した。何度も老人に笑われた。それでも最後には、自分の手で火をつけることができた。
「ついた」とイレーネは言った。自分でも驚くほど嬉しかった。
「これで、一つできるようになったな」
「はい」
「明日からは自分でやれ」
「やります」
その夜、イレーネは布袋を抱えて眠った。種の音が、からから、と鳴った。小屋の隙間から星が見えた。楯の国で見た星と同じ星だった。少しだけ安心した。
翌朝、出発する前に、イレーネは小屋の前の土に種を一粒植えた。老人がそれを見ていた。
「何をしている」
「花の種です」
「こんなところに植えて、誰が見る」
イレーネは少し考えた。
「誰も見なくても、咲くので」
老人はしばらく、その土を見ていた。それから何も言わずに頷いた。
「達者でな」
「あなたも」
イレーネは歩き始めた。火の起こし方を一つ覚えて。種を、また一つ、土に残して。
東へ。まだ何も決まっていない道を。
つづく




