表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第七章 東と、名前のない花と、誰も知らない妃殿下

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/132

第二話「最初の夜と、礎の国の言葉」


東へ、三日歩いた。道は最初のうちは舗装されていた。やがて土になった。やがて、けもの道のようになった。

イレーネは足が痛んだ。城の中では、こんなに長く歩いたことがなかった。靴はすぐに傷んだ。それでも止まらなかった。

三日目の夕方、国境を越えた。誰にも咎められなかった。誰も見ていなかった。

国境の標識は古い石碑だった。片側に楯の国の紋章、もう片側に礎の国の紋章が刻まれていた。イレーネはその石碑の前で、しばらく立ち止まった。

「越えてしまった」

声に出して言ってみた。実感が、まだなかった。

夜になった。森の中で野宿することにした。焚き火を起こそうとしたが、上手くいかなかった。火打ち石の使い方を知らなかった。そんなことすら知らずに生きてきた。

「……情けないわね」

何度目かの失敗の後、ようやく小さな火がついた。イレーネはその小さな炎を、長い間、見ていた。

遠くで物音がした。イレーネは身構えた。

出てきたのは一人の老人だった。薪を担いでいた。

「おや」と老人は言った。「珍しいな、こんな場所に」

イレーネは何も言えなかった。言葉が出なかった。

老人はイレーネの旅装を見た。それから火を見た。下手な火だった。

「お前さん、火の起こし方を知らんな」

「……はい」

「どこから来た」

イレーネは少し迷った。それから言った。

「西から」

老人はそれ以上聞かなかった。薪を火の傍に置いた。

「これを使え。お前さんの拾った枝は湿っている」

「ありがとうございます」

「礼はいい」

老人は火を直しながら、ぽつりと言った。

「礎の国の言葉、話せるんだな」

イレーネは少し止まった。楯の国と礎の国の言葉は似ていたが、完全には同じではなかった。わずかなアクセントの違いで出自が分かることがあった。

「……分かりますか」

「分かる。お前さん、楯の言葉の訛りがある」

イレーネは何も言わなかった。

老人はしばらく火を見ていた。それから静かに言った。

「逃げてきたのか」

イレーネは答えなかった。答えないことが答えだった。

「まあ、いい」と老人は言った。「理由は聞かん。聞いても、お前さんが楽になるわけじゃない」

イレーネはその言葉に少し驚いた。

「……ありがとうございます」

「礼はいいと言った」

老人は火に薪を一本足した。炎が少し大きくなった。

「お前さん、これからどこへ行く」

「決めていません」

それは半分だけ本当だった。行き先はあった。ただ、誰にも言うつもりがなかった。

「決めていない、とは」

「歩いた先が行き先になります」

老人はしばらくイレーネを見た。それから小さく笑った。

「変わった女だ」

「そうかもしれません」

老人は立ち上がった。

「ここいらは夜になると獣が出る。今夜は、この近くの小屋で休め」

「ご迷惑では」

「迷惑というほどのものでもない」

老人について、小さな小屋へ向かった。木こりの仕事小屋だった。粗末だったが雨風はしのげた。

「明日には出ていけ」

「分かりました」

「火の起こし方くらい、覚えていけ」

「……教えていただけますか」

老人は少し意外そうな顔をした。それから頷いた。

「いいだろう」

その夜、イレーネは火の起こし方を教わった。火打ち石の角度。乾いた枝の選び方。風の読み方。何度も失敗した。何度も老人に笑われた。それでも最後には、自分の手で火をつけることができた。

「ついた」とイレーネは言った。自分でも驚くほど嬉しかった。

「これで、一つできるようになったな」

「はい」

「明日からは自分でやれ」

「やります」

その夜、イレーネは布袋を抱えて眠った。種の音が、からから、と鳴った。小屋の隙間から星が見えた。楯の国で見た星と同じ星だった。少しだけ安心した。

翌朝、出発する前に、イレーネは小屋の前の土に種を一粒植えた。老人がそれを見ていた。

「何をしている」

「花の種です」

「こんなところに植えて、誰が見る」

イレーネは少し考えた。

「誰も見なくても、咲くので」

老人はしばらく、その土を見ていた。それから何も言わずに頷いた。

「達者でな」

「あなたも」

イレーネは歩き始めた。火の起こし方を一つ覚えて。種を、また一つ、土に残して。

東へ。まだ何も決まっていない道を。


つづく


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ