第一話「追放の朝」
城を出る朝、誰も見送らなかった。
イレーネはそう望んだ。
側仕えの一人だけが、門の外まで付いてきた。老いた女だった。イレーネが赤子の頃から仕えていた女だった。
「妃殿下」
「もう、妃ではないわ」
「……イレーネ様」
「家名も、ヴァイスに戻すわ。生まれた時の名前に」
老いた女は少し止まった。それから、深く頭を下げた。
「イレーネ・ヴァイス様」
「それでいいわ」
イレーネは振り返らなかった。城壁を見ていた。楯の国の、灰色の城壁だった。生まれてからずっと見てきた色だった。
「荷物は、これだけでよろしいのですか」
イレーネの手には、小さな布袋が一つだけあった。
「これだけでいい」
「中身は」
イレーネは少し答えなかった。それから、静かに言った。
「種よ」
「種、ですか」
「祖母が庭で育てていた花の種」
老いた女はしばらく黙っていた。
「名前のない、白い花の」
「知っているのね」
「存じております」
風が吹いた。城壁の向こうから、冷たい風だった。イレーネのドレスの裾を揺らした。もう、ドレスと呼べる服ではなかった。旅装だった。昨夜のうちに自分で仕立て直した。
旅装を着るのは、初めてではなかった。
壁の前に立つ夜、視察の名目で、何度かこの格好をしたことがあった。あの時の旅装は、いつでも脱げるものだった。夜が明ければ、また妃のドレスに戻り、城の中の人間に戻った。仮の姿だった。
今、着ているものは、それとは違った。
戻る先のないまま仕立てた服だった。脱いでも、戻るドレスは、もうどこにもなかった。
同じ言葉で呼ばれる服が、こんなにも違う重さを持つとは、昨夜、針を持つまで知らなかった。
「イレーネ様」
「なに」
「お一人で、どちらへ」
イレーネはしばらく答えなかった。それから布袋を軽く握った。
「決めていないわ」
「決めていない、とは」
「歩いた先が行き先になる」
老いた女は何も言えなかった。ただ頭を下げた。深く、長く下げた。
「達者で」とイレーネは言った。
「イレーネ様も」
それだけだった。
イレーネは門を出た。振り返らなかった。振り返れば、何かが崩れる気がした。
道はすぐに分かれた。東へ行けば、隣国——礎の国。西へ行けば、楯の国の地方。南へ行けば、海。
イレーネはしばらく、三つの道の前に立っていた。
祖母の声が、頭の中に蘇った。幼い頃、庭で聞いた声だった。
「この花はね、フワン草というのよ」
「フワン草?」
「柔らかい、という意味。代々、この庭で育てている花」
「変な名前」
「そうかしら。私は好きよ」
祖母は笑っていた。
「名前があってもなくても、毎年咲くわ。誰の許可もいらない」
イレーネは目を閉じた。それから開けた。東を選んだ。
本当は、理由はあった。東のどこかに、もう一つの約束があった。誰にも言うつもりのない約束だった。だから、自分にだけは、こう言い聞かせることにした。
——歩いた先が、行き先になる。
それで十分だった気がした。
歩き始めた。布袋の中で、種が小さな音を立てた。からから、と。乾いた、軽い音だった。
イレーネはその音を聞きながら歩いた。振り返らなかった。城壁が遠くなっていった。やがて見えなくなった。
道の脇に雑草が生えていた。名前を知らない、緑の草だった。イレーネはしゃがんだ。布袋から種を一粒取り出した。土に指で穴を開けた。種を落とした。土を被せた。
「ここから、始めるわ」
誰に言うでもなく、呟いた。
それから、もう一度、口の中で小さく呟いた。
「フワン草、じゃなくて」
祖母から受け継いだ名前を、ここに置いていくことにした。これからは、名前のない花として歩かせよう。そう決めた。
風が答えるように吹いた。
立ち上がった。歩き始めた。東へ。まだ何も決まっていない道だった。でも種は、もう一つ、土の中にあった。
それで十分だった。
つづく




