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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第七章 東と、名前のない花と、誰も知らない妃殿下

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第一話「追放の朝」


城を出る朝、誰も見送らなかった。

イレーネはそう望んだ。

側仕えの一人だけが、門の外まで付いてきた。老いた女だった。イレーネが赤子の頃から仕えていた女だった。

「妃殿下」

「もう、妃ではないわ」

「……イレーネ様」

「家名も、ヴァイスに戻すわ。生まれた時の名前に」

老いた女は少し止まった。それから、深く頭を下げた。

「イレーネ・ヴァイス様」

「それでいいわ」

イレーネは振り返らなかった。城壁を見ていた。楯の国の、灰色の城壁だった。生まれてからずっと見てきた色だった。

「荷物は、これだけでよろしいのですか」

イレーネの手には、小さな布袋が一つだけあった。

「これだけでいい」

「中身は」

イレーネは少し答えなかった。それから、静かに言った。

「種よ」

「種、ですか」

「祖母が庭で育てていた花の種」

老いた女はしばらく黙っていた。

「名前のない、白い花の」

「知っているのね」

「存じております」

風が吹いた。城壁の向こうから、冷たい風だった。イレーネのドレスの裾を揺らした。もう、ドレスと呼べる服ではなかった。旅装だった。昨夜のうちに自分で仕立て直した。

旅装を着るのは、初めてではなかった。

壁の前に立つ夜、視察の名目で、何度かこの格好をしたことがあった。あの時の旅装は、いつでも脱げるものだった。夜が明ければ、また妃のドレスに戻り、城の中の人間に戻った。仮の姿だった。

今、着ているものは、それとは違った。

戻る先のないまま仕立てた服だった。脱いでも、戻るドレスは、もうどこにもなかった。

同じ言葉で呼ばれる服が、こんなにも違う重さを持つとは、昨夜、針を持つまで知らなかった。

「イレーネ様」

「なに」

「お一人で、どちらへ」

イレーネはしばらく答えなかった。それから布袋を軽く握った。

「決めていないわ」

「決めていない、とは」

「歩いた先が行き先になる」

老いた女は何も言えなかった。ただ頭を下げた。深く、長く下げた。

「達者で」とイレーネは言った。

「イレーネ様も」

それだけだった。

イレーネは門を出た。振り返らなかった。振り返れば、何かが崩れる気がした。

道はすぐに分かれた。東へ行けば、隣国——礎の国。西へ行けば、楯の国の地方。南へ行けば、海。

イレーネはしばらく、三つの道の前に立っていた。

祖母の声が、頭の中に蘇った。幼い頃、庭で聞いた声だった。

「この花はね、フワン草というのよ」

「フワン草?」

「柔らかい、という意味。代々、この庭で育てている花」

「変な名前」

「そうかしら。私は好きよ」

祖母は笑っていた。

「名前があってもなくても、毎年咲くわ。誰の許可もいらない」

イレーネは目を閉じた。それから開けた。東を選んだ。

本当は、理由はあった。東のどこかに、もう一つの約束があった。誰にも言うつもりのない約束だった。だから、自分にだけは、こう言い聞かせることにした。

——歩いた先が、行き先になる。

それで十分だった気がした。

歩き始めた。布袋の中で、種が小さな音を立てた。からから、と。乾いた、軽い音だった。

イレーネはその音を聞きながら歩いた。振り返らなかった。城壁が遠くなっていった。やがて見えなくなった。

道の脇に雑草が生えていた。名前を知らない、緑の草だった。イレーネはしゃがんだ。布袋から種を一粒取り出した。土に指で穴を開けた。種を落とした。土を被せた。

「ここから、始めるわ」

誰に言うでもなく、呟いた。

それから、もう一度、口の中で小さく呟いた。

「フワン草、じゃなくて」

祖母から受け継いだ名前を、ここに置いていくことにした。これからは、名前のない花として歩かせよう。そう決めた。

風が答えるように吹いた。

立ち上がった。歩き始めた。東へ。まだ何も決まっていない道だった。でも種は、もう一つ、土の中にあった。

それで十分だった。


つづく


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