第五話「春と、カボチャの種と、フワンが渡したかったもの」
春になった。
白い花が咲いた。
名前を知らない花が、今年も咲いた。
丘の上に、三人で立った。
エルザとフワンとマティアス。
風が吹いた。
花の香りが、三人を包んだ。
フワンが畑に向かったのは、昼過ぎだった。
種を植えるらしかった。
マティアスもついていった。
理由は特になかった。
フワンは畑に膝をついた。
土を掘った。
丁寧に掘った。
「マティアスさん」
「なんだ」
「今年も十個以上実らせます」
「去年は十一個だったな」
「今年は十二個にします」
「難しいかもしれない」
「難しくてもやります」
「そうか」
フワンは種を三粒、土に入れた。
丁寧に埋め戻した。
それから、ポケットから何かを取り出した。
種だった。
カボチャの種だった。
「マティアスさん」
「なんだ」
「これ、一粒、持っていってもらえませんか」
マティアスは種を見た。
小さかった。
平たかった。
「去年も渡してくれたな」
「はい。また渡したいです」
「なぜだ」
フワンはしばらく土を見た。
それから、にやにやした。
「なんとなくです。マティアスさんの引き出しに入れてもらいたくて」
「去年の種は、まだある」
「じゃあ、二粒になりますね」
「二粒になるな」
「良いですか」
マティアスは種を受け取った。
「良い」
フワンがにやにやした。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
フワンは畑の土を、手で軽く叩いた。
立ち上がった。
土を払った。
それから、少し遠くを見た。
「マティアスさん」
「なんだ」
「一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
フワンは遠くを見たまま言った。
「ヴェルタの、歌を歌う人のことを、エルザに話しましたか」
「話した。手紙に書いた」
「エルザ、何て言ってましたか」
「いつかその歌が聞こえるかもしれない、と言っていた」
フワンはしばらく黙っていた。
「そうですか」
それだけ言った。
春の風が吹いた。
花の香りがした。
「フワン」
「なんですか」
「お前は、その歌を知っているか」
フワンは少し止まった。
長く止まった。
それから、静かに言った。
「知っています」
「どこで聞いた」
「……母が、歌っていました」
マティアスは返事をしなかった。
フワンも、それ以上は言わなかった。
しばらく、二人で畑の前に立っていた。
春の風が、また吹いた。
その夜、引き出しを開けた。
去年の種の隣に、今年の種を入れた。
二粒になった。
閉めた。
また開けた。
二粒あった。
閉めた。
窓の外では、春の夜が続いていた。
名前を知らない花の香りが、どこかからした。
フワンの母が歌っていた歌を、マティアスも知っていた。
防波堤で聞いた歌だった。
でも今夜は、それだけではない何かが、引き出しの奥にある気がした。
形のないままで、そこにあった。
名前を知らない花と、同じかもしれなかった。
毎年咲く。
名前がなくても、毎年咲く。
それで十分だった。
第六章 完




