第三話「国境の、夜」
春になった。
雪が解けた。
王は、年に一度の、国境視察に出ていた。
礎の国と、楯の国の境には、長い壁があった。
壁の向こうは、誰もいない、緩衝地帯だった。
どちらの国の兵も、立ち入らない場所だった。
視察の最後の夜、王は、護衛を下がらせた。
「少し、一人で、壁を見てくる」
「殿下」
「すぐに戻る」
護衛は、しばらく、王を見ていた。
それから、頭を下げた。
「お気をつけて」
王は、壁に向かった。
月が出ていた。
壁の前に、人影があった。
一人だった。
旅装だった。
「殿下」
イレーネの声だった。
王は、足を止めた。
「妃殿下」
「お久しぶりです」
「ここまで、どうやって来た」
「同じです。視察、という名目で」
二人は、壁を挟んで、向かい合った。
壁は、低かった。
手を伸ばせば、届く高さだった。
「妃殿下」
「なんでしょう」
「歌を、聞かせてほしいと、書いた」
「覚えています」
「聞かせてもらえるか」
イレーネは、少し間を置いた。
それから、静かに言った。
「歌います」
イレーネは、歌い始めた。
低い声だった。
言葉があった。
礎の国の言葉でも、楯の国の言葉でもなかった。
もっと古い言葉だった。
王には、意味が分からなかった。
でも、何かが、伝わってきた。
悲しみではなかった。
祈りに、近かった。
歌が終わった。
壁の向こうで、風が止んでいた。
王は、しばらく、何も言わなかった。
「殿下」
「なんだ」
「分かりましたか、言葉の意味」
「分からない」
「それでいいんです」とイレーネは言った。「私も、分かりません。祖母も、分からなかったそうです。ただ、音だけが、伝わっています」
「音だけが」
「ええ」
「それでも、伝わるものがある」
「そうです」
二人は、しばらく、黙っていた。
王は、壁の向こうを見た。
緩衝地帯が広がっていた。
誰もいない、土地だった。
草も、まだ、伸びていなかった。
冬の終わりの、何もない土地だった。
「妃殿下」
「なんでしょう」
「あそこを、見てくれ」
イレーネが、壁の向こうを見た。
「何も、ありませんね」
「ああ」
「どちらの国でもない」
「ああ」
「何もないから、どちらの国でもないのかもしれません」
王は、しばらく、その土地を見ていた。
「殿下」
「なんだ」
「一つ、伺ってもいいですか」
「聞こう」
「もし——」
イレーネは、少し言葉を切った。
「もし、私たちが、あそこに行けたら」
王は、イレーネを見た。
イレーネは、壁の向こうを見ていた。
月の光の中で、その横顔は、静かだった。
「どちらの国でもない場所」とイレーネは言った。「どちらの国の王でも、妃でもない、ただの二人として」
「それは」
「危険な考えだと、分かっています」
「分かっていて、言うのか」
「言います」
王は、壁の向こうを見た。
何もない土地が、月の光の中で、広がっていた。
「いつだ」と王は言った。
イレーネが、王を見た。
「殿下」
「いつなら、行ける」
「……本気ですか」
「妃殿下が、先に言った」
「そうですが」
「私も、同じことを、考えていた」と王は言った。「夜会の夜から」
イレーネは、しばらく、王を見ていた。
それから、静かに、笑った。
今夜、初めて見た笑い方だった。
「夏の終わり」とイレーネは言った。「視察の名目が、また使えます」
「夏の終わり」
「ええ」
「分かった」
二人は、しばらく、壁を挟んで、立っていた。
月が、雲に隠れた。
また、出てきた。
「殿下」
「なんだ」
「もう一度、聞いてもらえますか」
「歌を」
「ええ」
イレーネは、もう一度、歌い始めた。
同じ歌だった。
低くて、古い言葉だった。
王は、その歌を、聞いていた。
二度目だった。
旋律だけは、なぜか、覚えていた。
気づくと、自分も、小さく、声を出していた。
言葉はなかった。
ただ、旋律だけだった。
イレーネが、歌うのを、止めた。
王を、見た。
王も、止まった。
「殿下」
「……すまない」
「いえ」とイレーネは言った。「歌っていましたね」
「気づかなかった」
「旋律だけ、でしたが」
「そうらしい」
イレーネは、しばらく、王を見ていた。
それから、静かに言った。
「半分ずつ、というのは、本当かもしれません」
王は、何も言わなかった。
何もない土地の方を、見た。
風が、吹いていた。
何も、揺れなかった。
「殿下」
「なんだ」
「夏の終わりに」
「ああ」
「また、ここで」
「ああ」
イレーネは、一礼した。
それから、来た方向へ、歩いていった。
旅装の後ろ姿が、月の光の中に、消えていった。
王は、しばらく、その場に立っていた。
小さく、また、旋律を、口ずさんだ。
言葉のない、歌だった。
それから、護衛のいる場所へ、戻った。
つづく




