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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
幕間 王と、妃殿下と、二人だけの約束

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第一話「舞踏会の夜」


夜会だった。

両国の和平を祝う、という名目だった。

シャンデリアの光が、磨き上げられた大理石に反射していた。

笑い声が、あちこちから聞こえた。

誰も、本当に笑っているようには見えなかった。

礎の国の王は、壁際に立っていた。

礎の国の王だった。

礎の国は、長く、隣国と争っていた。

今夜は、その隣国の使節団が来ていた。


「殿下」

側近が、近づいてきた。


「楯の国の、イレーネ妃殿下が、こちらに向かっておられます」

「そうか」

王は、人々の間を見た。

深い青のドレスを着た女が、ゆっくりと歩いてきていた。

表情は、静かだった。

笑っていなかった。

この場で、笑っていない人間は、彼女と王、二人だけだった。

イレーネが、目の前に来た。


一礼した。

「殿下」

「イレーネ妃殿下」

「お会いするのは、初めてですね」

「そうだな」

「噂は、伺っております」

「どんな噂だ」

「礎の国の王は、必要以上に物を言わない、と」

王は、少し間を置いた。


「事実だ」

イレーネが、わずかに笑った。

今夜、初めて見た笑い方だった。

「それは、こちらの国でも、同じです」

二人は、しばらく、無言で並んで立っていた。

楽団の音が、遠くで鳴っていた。

シャンデリアの下で、貴族たちが、互いに値踏みするような目で、笑い合っていた。

「殿下」とイレーネは言った。

「なんだ」

「この光景を、どう思われますか」

王は、しばらく、その光景を見た。

笑い声。

グラスの音。

誰も、本当のことを言っていない部屋。


「醜い」と王は言った。


イレーネが、少し止まった。

それから、静かに言った。

「私も、そう思います」

「妃殿下」

「なんでしょう」

「失礼を承知で言う」

「どうぞ」

「楯の国の王は、今夜、来ていないようだ」


イレーネの表情が、わずかに変わった。

痛みのようなものだった。


「ええ」とイレーネは言った。「来られませんでした」

「そうか」

「殿下の方も」

「妃は、来ていない」

「そうですか」

二人は、また、しばらく黙っていた。

「殿下」

「なんだ」

「一つ、伺ってもいいですか」

「聞こう」

「礎の国と、楯の国は、なぜ戦っているのでしょう」

王は、少し考えた。

「分からない」

「分からない、のですか」

「最初の理由は、もう、誰も覚えていない」と王は言った。「ただ、戦っている、ということだけが、残っている」

イレーネは、しばらく、王を見た。

「同じです」

「同じか」

「楯の国でも、同じです。誰も、最初の理由を知りません。ただ、憎むことだけが、習わしのように、続いています」

楽団の音楽が、変わった。

踊りが、始まった。

貴族たちが、ペアになって、広間の中央に出ていった。

王とイレーネは、壁際に残った。

「殿下」

「なんだ」

「一つ、提案があります」

「聞こう」

「踊りませんか」

王は、少し止まった。

「敵国の妃と、踊るのか」

「ええ」

「外交上、問題があるのではないか」

イレーネは、少し笑った。

「問題は、もう、たくさんあります。一つ増えたところで、変わりません」

王は、しばらく、イレーネを見た。


それから、手を差し出した。

「踊ろう」

二人は、広間の中央に出た。

他の貴族たちが、ざわついた。

礎の国の王と、楯の国の妃。

誰も、こんなことを予想していなかった。

でも、二人は、何も気にしなかった。

音楽が、続いた。


二人は、踊った。

「殿下」とイレーネは、踊りながら言った。

「なんだ」

「先ほどの質問の、続きがあります」

「聞こう」

「戦う理由が、誰にも分からないなら」

「うん」

「やめる理由も、誰かが、決めていいのではないでしょうか」

王は、イレーネを見た。

イレーネは、まっすぐに、王を見ていた。

今夜、初めて、本当に笑っているように見えた。

「それは」と王は言った。「危険な考えだ」

「分かっています」

「妃殿下のお立場を、危うくする」

「分かっています」

「それでも、言うのか」

「言います」

王は、しばらく、黙っていた。

音楽が、続いていた。


音楽が、終わった。

二人は、足を止めた。

広間中の視線が、二人に向けられていた。

「殿下」

「なんだ」

「ありがとうございました」

「いや」

「また、お話できますか」

王は、少し考えた。

「分からない」

「分からない、のですか」

「次に会う機会があるかどうか、私には決められない」

イレーネは、少し笑った。

「それも、同じですね」

イレーネは、一礼した。

それから、楯の国の使節団の方へ、歩いていった。

王は、その後ろ姿を、しばらく見ていた。

側近が、近づいてきた。

「殿下」

「なんだ」

「あれは……まずいのでは」

「分かっている」

「分かっていて、なさったのですか」

王は、もう一度、広間を見た。


笑い声。

グラスの音。

誰も、本当のことを言っていない部屋。

「今夜、初めて、本当のことを話した」と王は言った。

「殿下……」

「それだけだ」

王は、広間を出た。


夜の庭に出た。

星が出ていた。

風が、冷たかった。

庭には、何も咲いていなかった。

冬の終わりだった。

ただ、土だけがあった。

何も植えられていない、土だった。

王は、しばらく、その土を見ていた。

理由は、分からなかった。

ただ、見ていた。

「もう一度、会えるだろうか」

小さく、つぶやいた。

誰も、その言葉を聞いていなかった。

星だけが、それを聞いていた。

それだけだった。

それだけでは十分ではなかった。


つづく



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