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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第五章 春と、カイルの父と、庭に咲いていた花

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第七話「丘の上と、再会と、名前を知らない歌」

来年の春になった。

出発の朝、マティアスは引き出しを開けなかった。

開けなくても、全部分かっていた。

出発した。


三日かかった。

三日目の午後、小川が見えた。

春の川が、きらきらと光っていた。

北へ向かった。

一里。

二里。

村が見えた。

ルドルフが来た。

ナギが来た。

ナギは、川の方からではなく、丘の方から来た。

「ああ、ナギ」とマティアスは言った。

ナギは尻尾を振った。

穏やかに振った。


村の入り口に、フワンがいた。

門の前で待っていた。

マティアスを見て、笑った。

走ってきた。

「来てくれた」

「ああ」

「今年は、カイルさんたちも来るんですよね」

「そうだ。後から来る」

「カイルさんのお父様も?」

「来ると言っていた」

フワンがにやにやした。

「楽しみですね」

「そうだな」


エルザは丘の上にいた。

白い花の中にいた。

マティアスが登ってくるのを見た。

笑った。

「来た」と言った。

「ああ」とマティアスは言った。

「今年は賑やかになりそうね」

「そうだな」

「カイルさんのお父様、また来てくれるのね」

「そうだ」

「楽しみね」

「そうだな」


二日後、カイルとアンナが来た。

そして、カイルの父も一緒だった。

門の前で、マティアスとフワンが待っていた。

「来たな」とマティアスは言った。

「来ると言った」とカイルは言った。

「善処ではなく」

「善処ではなく」

カイルの父が、ゆっくりと馬を降りた。

カイルが手を貸した。

カイルの父は、村を見た。

それから、丘を見た。

白い花が、丘の上で揺れていた。

「来たよ」とカイルの父は言った。

「お待ちしておりました」とマティアスは言った。

「春に会った時より、少し顔色が良いですね」

カイルの父は笑った。

カイルに似た目で笑った。

「種が、芽を出した」

「庭の種が」

「咲いた」とカイルの父は言った。「ヴァイス村の花と、また同じだった」

「確かめましたか」

「確かめた。同じだった」

マティアスは少し間を置いた。

「良かったです」

「来て良かった」とカイルの父は言った。「もう一度、自分の目で確かめたくてな」

アンナが、静かに歩いてきた。

黒い髪を、後ろでまとめていた。

「マティアスさん」とアンナは言った。「お話は、カイルからよく聞いています」

「世話になっている」

「いいえ」とアンナは静かに言った。「楽しい話を、いつも聞かせてもらっています」

カイルが「オッホン」と言った。

アンナが小さく笑った。


丘の上に、全員で登った。

今年は六人だった。

マティアスとエルザとカイルとアンナとフワンとカイルの父。

それから、犬たちも来た。

ルドルフと、ナギと、もう一匹。

白い花が、春の風に揺れていた。

カイルの父が、深く息を吸った。

「良い香りだな」

「毎年こうです」

「庭の花と、同じ香りか」

「そうかもしれません」

カイルの父はしばらく、丘の下を見た。

川が光っていた。

村が見えた。

厩の方に、オットーがいた。

今年も、少し困った顔で立っていた。

「良い村だな」

「そうです」

「カイルがよく話してくれた」

「そうですか」

「来て、分かった」

「来てくれて良かったです」

「来て良かった」


エルザが、白い花を一輪、摘んだ。

カイルに渡した。

「お父様に」

カイルは受け取った。

それを、カイルの父に渡した。

カイルの父は、その花を見た。

それから、懐から何かを取り出した。

小さな布だった。

開けた。

押し花が入っていた。

庭の花の押し花だった。

カイルの父は、丘の花と、押し花を見比べた。

「同じだ」と言った。

「そうですね」とマティアスは言った。

「確かめられた」

カイルの父は、しばらく押し花を見ていた。

それから、布を開いたまま、丘の土の上に、そっと置いた。

「マティアスくん」

「はい」

「これを、ここに置いていっていいか」

マティアスは少し止まった。

「ここに、ですか」

「庭の花も、ここの花も、同じ花だと分かった」とカイルの父は言った。「だから、庭の花の一部を、ここに返したい」

「分かりました」

「フワン」

「はい」とフワンは言った。

「これを、丘のどこかに、植えてくれるか」

「植えます」

カイルの父は、押し花を、エルザの手に渡した。

エルザは、それを丁寧に受け取った。

それから、カイルの父は、エルザが摘んだ丘の花を見た。

「これは」

「お父様に」とエルザは言った。

カイルの父は、その花を丁寧に布に包んだ。

懐に入れた。

「持って帰る」

「そうしてください」


カイルの父は、押し花を懐に入れた。

それから、ふと、エルザを見た。

「エルザさんといったか」

「はい」

「花の扱いが、丁寧だな」

「そうですか?」

「かつて家に宿を借りにた者にも、そういう手つきの者がいた」とカイルの父は言った。「ずいぶん昔の話だが」

エルザは少し首をかしげた。

「昔の庭師さんですか」

「もう、いない」とカイルの父は言った。それ以上、続けなかった。

丘を吹く風が、白い花を揺らした。

カイルの父は、しばらく、その風の中に立っていた。

何かを思い出しかけて、思い出せない、というような顔だった。

「……いや、なんでもない」

「そうですか」

それだけだった。

マティアスは、その一瞬の間を、見ていた。

見ていたが、何も言わなかった。


その夜、全員で夕食を食べた。

エルザのシチューだった。

カイルの父が一口食べた。

「旨い」と言った。

「ありがとうございます」とエルザは言った。

「カイルが旨いと言い続ける理由が分かった」

「毎回三杯食べるんですよ」とフワンは言った。

「今年も三杯食べるか、カイル」

「食べる」とカイルは言った。

「食に関して嘘をつかないのは、お前に似たんだ」

アンナが小さく笑った。

エルザが笑った。

フワンがにやにやした。

マティアスはシチューを食べていた。

旨かった。

今まで食べた中で、一番だった。


カイルの父は、スプーンを置いた。

それから、フワンを見た。

「フワンくんは、いくつになる」

「十六です」

「そうか」

カイルの父は、少しの間、フワンの顔を見ていた。

「食べ方が、行儀がいいな」

「そうですか?」

「急いで食べているのに、行儀がいい」とカイルの父は言った。「珍しい食べ方だ」

フワンはにやにやした。

「エルザに、うるさく言われて育ったので」

「エルザさんに」

「はい」

カイルの父は、小さく頷いた。


夜が深くなった。

フワンが先に寝た。

カイルの父も休んだ。

縁側に、マティアスとエルザとカイルとアンナが出た。

四人で、春の夜を見た。

ナギが来た。

縁側に来て、川の方を見た。

でも、そこにいた。

川の音がした。

花の香りがした。

星が出ていた。

しばらく、誰も何も言わなかった。

それから、マティアスが小さく、何かを口ずさんだ。

名前を知らない歌だった。

言葉はなかった。

音だけだった。

でも、確かに出てきた。

カイルが少し止まった。

アンナも、静かにマティアスを見た。

二人とも、初めて聞く顔をしていた。

エルザは、何も言わなかった。

ただ、しばらく、じっと聞いていた。

歌は短かった。

すぐに終わった。

縁側が静かになった。

川の音だけが残った。


歌が終わった後、しばらく誰も何も言わなかった。

カイルの父だけが、少し違う顔をしていた。

初めて聞く顔ではなく——何かを、思い出そうとしている顔だった。


「……ねえ」とエルザが静かに言った。

「なんだ」

「今の歌」

「なんだ」

エルザは、しばらく黙っていた。

それから、少し首をかしげた。

「なんか、聞いたことある気がした」

「どこで聞いた」

「分からない」とエルザは言った。「うまく言えないんだけど」

「そうか」

「なんとなく、よ」とエルザは言った。「気のせいかもしれない」

カイルが「オッホン」と言った。

「何が言いたい」とマティアスは言った。

「良い歌だった」とカイルは言った。

「ありがとう」

アンナが静かに言った。

「良い歌でした」

「ありがとう」

「来年も、聞かせてもらえますか」

「出てきたら」

「それで十分です」

エルザが手を取った。

今年も、どちらが先か分からなかった。

「ねえ、マティアス」

「なんだ」

「来年も、ここで歌を聞かせてくれる?」

「出てきたら」

「再来年も?」

「出てきたら」

「ずっと?」

マティアスは少し間を置いた。

「ずっとだ」

エルザが笑った。

今夜一番の笑い方で笑った。

声に出して笑った。

春の夜に、笑い声が溶けた。

カイルが「オッホン」と言った。

アンナが小さく笑った。

ナギが、川の方を見た。

でも、縁側にいた。

それで十分だった。


名前を知らない花が、丘の上で、今夜も静かに咲いていた。

カイルの庭にも、同じ花が咲いていた。

遠くても、同じ花が咲いていた。

誰かが見ていれば、それで十分だった。

全員が見ていた。

それ以上でも、それ以下でもなかった。

春の夜が、静かに続いていた。

それだけだった。

それだけで十分だった。


つづく


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