第七話「丘の上と、再会と、名前を知らない歌」
来年の春になった。
出発の朝、マティアスは引き出しを開けなかった。
開けなくても、全部分かっていた。
出発した。
三日かかった。
三日目の午後、小川が見えた。
春の川が、きらきらと光っていた。
北へ向かった。
一里。
二里。
村が見えた。
ルドルフが来た。
ナギが来た。
ナギは、川の方からではなく、丘の方から来た。
「ああ、ナギ」とマティアスは言った。
ナギは尻尾を振った。
穏やかに振った。
村の入り口に、フワンがいた。
門の前で待っていた。
マティアスを見て、笑った。
走ってきた。
「来てくれた」
「ああ」
「今年は、カイルさんたちも来るんですよね」
「そうだ。後から来る」
「カイルさんのお父様も?」
「来ると言っていた」
フワンがにやにやした。
「楽しみですね」
「そうだな」
エルザは丘の上にいた。
白い花の中にいた。
マティアスが登ってくるのを見た。
笑った。
「来た」と言った。
「ああ」とマティアスは言った。
「今年は賑やかになりそうね」
「そうだな」
「カイルさんのお父様、また来てくれるのね」
「そうだ」
「楽しみね」
「そうだな」
二日後、カイルとアンナが来た。
そして、カイルの父も一緒だった。
門の前で、マティアスとフワンが待っていた。
「来たな」とマティアスは言った。
「来ると言った」とカイルは言った。
「善処ではなく」
「善処ではなく」
カイルの父が、ゆっくりと馬を降りた。
カイルが手を貸した。
カイルの父は、村を見た。
それから、丘を見た。
白い花が、丘の上で揺れていた。
「来たよ」とカイルの父は言った。
「お待ちしておりました」とマティアスは言った。
「春に会った時より、少し顔色が良いですね」
カイルの父は笑った。
カイルに似た目で笑った。
「種が、芽を出した」
「庭の種が」
「咲いた」とカイルの父は言った。「ヴァイス村の花と、また同じだった」
「確かめましたか」
「確かめた。同じだった」
マティアスは少し間を置いた。
「良かったです」
「来て良かった」とカイルの父は言った。「もう一度、自分の目で確かめたくてな」
アンナが、静かに歩いてきた。
黒い髪を、後ろでまとめていた。
「マティアスさん」とアンナは言った。「お話は、カイルからよく聞いています」
「世話になっている」
「いいえ」とアンナは静かに言った。「楽しい話を、いつも聞かせてもらっています」
カイルが「オッホン」と言った。
アンナが小さく笑った。
丘の上に、全員で登った。
今年は六人だった。
マティアスとエルザとカイルとアンナとフワンとカイルの父。
それから、犬たちも来た。
ルドルフと、ナギと、もう一匹。
白い花が、春の風に揺れていた。
カイルの父が、深く息を吸った。
「良い香りだな」
「毎年こうです」
「庭の花と、同じ香りか」
「そうかもしれません」
カイルの父はしばらく、丘の下を見た。
川が光っていた。
村が見えた。
厩の方に、オットーがいた。
今年も、少し困った顔で立っていた。
「良い村だな」
「そうです」
「カイルがよく話してくれた」
「そうですか」
「来て、分かった」
「来てくれて良かったです」
「来て良かった」
エルザが、白い花を一輪、摘んだ。
カイルに渡した。
「お父様に」
カイルは受け取った。
それを、カイルの父に渡した。
カイルの父は、その花を見た。
それから、懐から何かを取り出した。
小さな布だった。
開けた。
押し花が入っていた。
庭の花の押し花だった。
カイルの父は、丘の花と、押し花を見比べた。
「同じだ」と言った。
「そうですね」とマティアスは言った。
「確かめられた」
カイルの父は、しばらく押し花を見ていた。
それから、布を開いたまま、丘の土の上に、そっと置いた。
「マティアスくん」
「はい」
「これを、ここに置いていっていいか」
マティアスは少し止まった。
「ここに、ですか」
「庭の花も、ここの花も、同じ花だと分かった」とカイルの父は言った。「だから、庭の花の一部を、ここに返したい」
「分かりました」
「フワン」
「はい」とフワンは言った。
「これを、丘のどこかに、植えてくれるか」
「植えます」
カイルの父は、押し花を、エルザの手に渡した。
エルザは、それを丁寧に受け取った。
それから、カイルの父は、エルザが摘んだ丘の花を見た。
「これは」
「お父様に」とエルザは言った。
カイルの父は、その花を丁寧に布に包んだ。
懐に入れた。
「持って帰る」
「そうしてください」
カイルの父は、押し花を懐に入れた。
それから、ふと、エルザを見た。
「エルザさんといったか」
「はい」
「花の扱いが、丁寧だな」
「そうですか?」
「かつて家に宿を借りにた者にも、そういう手つきの者がいた」とカイルの父は言った。「ずいぶん昔の話だが」
エルザは少し首をかしげた。
「昔の庭師さんですか」
「もう、いない」とカイルの父は言った。それ以上、続けなかった。
丘を吹く風が、白い花を揺らした。
カイルの父は、しばらく、その風の中に立っていた。
何かを思い出しかけて、思い出せない、というような顔だった。
「……いや、なんでもない」
「そうですか」
それだけだった。
マティアスは、その一瞬の間を、見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
その夜、全員で夕食を食べた。
エルザのシチューだった。
カイルの父が一口食べた。
「旨い」と言った。
「ありがとうございます」とエルザは言った。
「カイルが旨いと言い続ける理由が分かった」
「毎回三杯食べるんですよ」とフワンは言った。
「今年も三杯食べるか、カイル」
「食べる」とカイルは言った。
「食に関して嘘をつかないのは、お前に似たんだ」
アンナが小さく笑った。
エルザが笑った。
フワンがにやにやした。
マティアスはシチューを食べていた。
旨かった。
今まで食べた中で、一番だった。
カイルの父は、スプーンを置いた。
それから、フワンを見た。
「フワンくんは、いくつになる」
「十六です」
「そうか」
カイルの父は、少しの間、フワンの顔を見ていた。
「食べ方が、行儀がいいな」
「そうですか?」
「急いで食べているのに、行儀がいい」とカイルの父は言った。「珍しい食べ方だ」
フワンはにやにやした。
「エルザに、うるさく言われて育ったので」
「エルザさんに」
「はい」
カイルの父は、小さく頷いた。
夜が深くなった。
フワンが先に寝た。
カイルの父も休んだ。
縁側に、マティアスとエルザとカイルとアンナが出た。
四人で、春の夜を見た。
ナギが来た。
縁側に来て、川の方を見た。
でも、そこにいた。
川の音がした。
花の香りがした。
星が出ていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、マティアスが小さく、何かを口ずさんだ。
名前を知らない歌だった。
言葉はなかった。
音だけだった。
でも、確かに出てきた。
カイルが少し止まった。
アンナも、静かにマティアスを見た。
二人とも、初めて聞く顔をしていた。
エルザは、何も言わなかった。
ただ、しばらく、じっと聞いていた。
歌は短かった。
すぐに終わった。
縁側が静かになった。
川の音だけが残った。
歌が終わった後、しばらく誰も何も言わなかった。
カイルの父だけが、少し違う顔をしていた。
初めて聞く顔ではなく——何かを、思い出そうとしている顔だった。
「……ねえ」とエルザが静かに言った。
「なんだ」
「今の歌」
「なんだ」
エルザは、しばらく黙っていた。
それから、少し首をかしげた。
「なんか、聞いたことある気がした」
「どこで聞いた」
「分からない」とエルザは言った。「うまく言えないんだけど」
「そうか」
「なんとなく、よ」とエルザは言った。「気のせいかもしれない」
カイルが「オッホン」と言った。
「何が言いたい」とマティアスは言った。
「良い歌だった」とカイルは言った。
「ありがとう」
アンナが静かに言った。
「良い歌でした」
「ありがとう」
「来年も、聞かせてもらえますか」
「出てきたら」
「それで十分です」
エルザが手を取った。
今年も、どちらが先か分からなかった。
「ねえ、マティアス」
「なんだ」
「来年も、ここで歌を聞かせてくれる?」
「出てきたら」
「再来年も?」
「出てきたら」
「ずっと?」
マティアスは少し間を置いた。
「ずっとだ」
エルザが笑った。
今夜一番の笑い方で笑った。
声に出して笑った。
春の夜に、笑い声が溶けた。
カイルが「オッホン」と言った。
アンナが小さく笑った。
ナギが、川の方を見た。
でも、縁側にいた。
それで十分だった。
名前を知らない花が、丘の上で、今夜も静かに咲いていた。
カイルの庭にも、同じ花が咲いていた。
遠くても、同じ花が咲いていた。
誰かが見ていれば、それで十分だった。
全員が見ていた。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
春の夜が、静かに続いていた。
それだけだった。
それだけで十分だった。
つづく




