第四話「カイルの引き出しと、犬の名前」
ヴァイス村に戻ると、エルザが縁側にいた。
「お帰り」と言った。
「ああ」とマティアスは言った。
「カイルさんのお父様、どんな人だった?」
「良い人だった」
「目が似てた?」
「目が似ていた」
「笑い方は」
「少し違った。でも笑うと同じだった」
エルザはしばらくマティアスを見た。
「あなたって、そういうことに気づくのね」
「気づかないと、人を見誤る」
「軍人だからかしら」
「そうかもしれない」
エルザは少し笑った。
「お庭に、白い花、咲いてた?」
マティアスは少し止まった。
「咲いていた」
「ヴァイス村のと同じ?」
「同じだった」
エルザが少し止まった。
それから、笑った。
「そうなのね」
「そうだ」
「名前を知らない花が、あちこちに咲いているのね」
「そうかもしれない」
その夜、フワンが言った。
「マティアスさん、犬の名前、決めましたか」
「まだだ」
「今夜、決めません?」
「ああ」
名前のない犬が、縁側に来た。
まだ小さかった。
川の方を見ていた。
でも、縁側にいた。
「この子、最近、畑の方によく来るんです」とフワンは言った。
「川の方ではなく」
「川も好きみたいですけど、畑にも来ます」
マティアスはその犬を見た。
川を見ながら、でも縁側にいる犬を見た。
「フワン」
「なんですか」
「この犬は、好きなものを見ながら、でも離れない犬だ」
フワンは少し考えた。
「そうですね」
「そういう犬に、合う名前はあるか」
フワンはしばらく犬を見た。
それから、エルザを見た。
エルザも犬を見ていた。
「ナギ、はどうでしょう」とエルザが言った。
「ナギ?」
「穏やかという意味の言葉よ。川みたいに、静かに流れている感じ」
フワンが少し止まった。
「ナギ」と繰り返した。
それから、にやにやした。
「良いですね」
「ナギ」とマティアスも言った。
犬が、尻尾を振った。
「決まりだな」
「決まりです」
フワンが犬の頭を撫でた。
「ナギ、お前は今日からナギだ」
ナギは、また尻尾を振った。
それから、川の方を見た。
でも、縁側にいた。
それで十分だった。
夜が深くなった。
フワンが先に寝た。
縁側に、マティアスとエルザが残った。
ナギも縁側にいた。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「カイルさんから、引き出しの話、聞いたことある?」
マティアスは少し止まった。
「引き出しは私のものだ」
「うん、知ってる。でも、カイルさんにも引き出しがあるのかなって思って」
マティアスは少し考えた。
「ある」
「あるの?」
「最初に何が入ったか、聞いたことがある」
「何だったの」
マティアスは少し間を置いた。
「士官学校の頃、夜中に羅針盤を逆に読んで、三時間見当違いの方向に歩いたことがある」
エルザが少し止まった。
「……あなたが?」
「そうだ」
「羅針盤を逆に」
「そうだ」
「三時間」
「そうだ」
エルザはしばらく黙った。
それから、こらえるような間があって、くすっと笑った。
「笑うな」
「笑ってないわよ」
「笑っている」
「笑ってない……笑ってるわ、ごめんなさい」
マティアスは川の方を見た。
「カイルは、その夜ずっと隣を歩いた。一言も言わずに。間違いに気づいた時も、ただ一緒に引き返した」
エルザの笑いが、静かになった。
「……それが、引き出しに最初に入ったものだと言っていた」
エルザはしばらく黙っていた。
「カイルさんも、持ってるのね」
「そうだ」
「今は、何が入ってるのかしら」
「分からない」
「アンナさんのことも、入るのかしらね」
マティアスは少し間を置いた。
「入るかもしれない」
「カイルさんの手紙に、アンナさんって人のこと、書いてあったでしょ」
「あった」
「どんな人なの」
「花が好きだと言っていた。名前のついた花も、名前のない花も、どちらも好きだと」
エルザが少し止まった。
「名前のない花?」
「そうだ」
エルザはしばらく考えた。
「ヴァイス村の花のことね、それ」
マティアスは少し間を置いた。
「カイルもそう思ったらしい」
エルザが笑った。
「カイルさんが、誰かのことでヴァイス村を思い出すなんて、珍しいわね」
「そうかもしれない」
ナギが、川の方を見た。
でも、動かなかった。
「ねえ、マティアス」
「なんだ」
「カイルさんが、アンナさんを連れてくるって言ったら、どう思う?」
マティアスは少し考えた。
「悪くないと思う」
「それだけ?」
「カイルの引き出しが、もう一つ重くなるだろう」
エルザが少し止まった。
それから、静かに笑った。
「良いことね、それ」
「そうだ」
川の音がした。
ナギが、尻尾を振った。
穏やかに振った。
それで十分だった。
翌朝、マティアスは出発した。
エルザが見送りに来た。
フワンも来た。ナギも来た。ルドルフも来た。
「また来るのね」とエルザは言った。
「ああ」
「夏も?」
「来る」
エルザは笑った。
マティアスは馬に乗った。
小川沿いの道を、南へ向かった。
名前を知らない花の香りが、しばらくついてきた。
つづく




