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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第五章 春と、カイルの父と、庭に咲いていた花

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第四話「カイルの引き出しと、犬の名前」


ヴァイス村に戻ると、エルザが縁側にいた。

「お帰り」と言った。

「ああ」とマティアスは言った。

「カイルさんのお父様、どんな人だった?」

「良い人だった」

「目が似てた?」

「目が似ていた」

「笑い方は」

「少し違った。でも笑うと同じだった」

エルザはしばらくマティアスを見た。

「あなたって、そういうことに気づくのね」

「気づかないと、人を見誤る」

「軍人だからかしら」

「そうかもしれない」

エルザは少し笑った。

「お庭に、白い花、咲いてた?」

マティアスは少し止まった。

「咲いていた」

「ヴァイス村のと同じ?」

「同じだった」

エルザが少し止まった。

それから、笑った。

「そうなのね」

「そうだ」

「名前を知らない花が、あちこちに咲いているのね」

「そうかもしれない」


その夜、フワンが言った。

「マティアスさん、犬の名前、決めましたか」

「まだだ」

「今夜、決めません?」

「ああ」

名前のない犬が、縁側に来た。

まだ小さかった。

川の方を見ていた。

でも、縁側にいた。

「この子、最近、畑の方によく来るんです」とフワンは言った。

「川の方ではなく」

「川も好きみたいですけど、畑にも来ます」

マティアスはその犬を見た。

川を見ながら、でも縁側にいる犬を見た。

「フワン」

「なんですか」

「この犬は、好きなものを見ながら、でも離れない犬だ」

フワンは少し考えた。

「そうですね」

「そういう犬に、合う名前はあるか」

フワンはしばらく犬を見た。

それから、エルザを見た。

エルザも犬を見ていた。

「ナギ、はどうでしょう」とエルザが言った。

「ナギ?」

「穏やかという意味の言葉よ。川みたいに、静かに流れている感じ」

フワンが少し止まった。

「ナギ」と繰り返した。

それから、にやにやした。

「良いですね」

「ナギ」とマティアスも言った。

犬が、尻尾を振った。

「決まりだな」

「決まりです」

フワンが犬の頭を撫でた。

「ナギ、お前は今日からナギだ」

ナギは、また尻尾を振った。

それから、川の方を見た。

でも、縁側にいた。

それで十分だった。


夜が深くなった。

フワンが先に寝た。

縁側に、マティアスとエルザが残った。

ナギも縁側にいた。

「ねえ」とエルザが言った。

「なんだ」

「カイルさんから、引き出しの話、聞いたことある?」

マティアスは少し止まった。

「引き出しは私のものだ」

「うん、知ってる。でも、カイルさんにも引き出しがあるのかなって思って」

マティアスは少し考えた。

「ある」

「あるの?」

「最初に何が入ったか、聞いたことがある」

「何だったの」

マティアスは少し間を置いた。

「士官学校の頃、夜中に羅針盤を逆に読んで、三時間見当違いの方向に歩いたことがある」

エルザが少し止まった。

「……あなたが?」

「そうだ」

「羅針盤を逆に」

「そうだ」

「三時間」

「そうだ」

エルザはしばらく黙った。

それから、こらえるような間があって、くすっと笑った。

「笑うな」

「笑ってないわよ」

「笑っている」

「笑ってない……笑ってるわ、ごめんなさい」

マティアスは川の方を見た。

「カイルは、その夜ずっと隣を歩いた。一言も言わずに。間違いに気づいた時も、ただ一緒に引き返した」

エルザの笑いが、静かになった。

「……それが、引き出しに最初に入ったものだと言っていた」

エルザはしばらく黙っていた。

「カイルさんも、持ってるのね」

「そうだ」

「今は、何が入ってるのかしら」

「分からない」

「アンナさんのことも、入るのかしらね」

マティアスは少し間を置いた。

「入るかもしれない」

「カイルさんの手紙に、アンナさんって人のこと、書いてあったでしょ」

「あった」

「どんな人なの」

「花が好きだと言っていた。名前のついた花も、名前のない花も、どちらも好きだと」

エルザが少し止まった。

「名前のない花?」

「そうだ」

エルザはしばらく考えた。

「ヴァイス村の花のことね、それ」

マティアスは少し間を置いた。

「カイルもそう思ったらしい」

エルザが笑った。

「カイルさんが、誰かのことでヴァイス村を思い出すなんて、珍しいわね」

「そうかもしれない」

ナギが、川の方を見た。

でも、動かなかった。

「ねえ、マティアス」

「なんだ」

「カイルさんが、アンナさんを連れてくるって言ったら、どう思う?」

マティアスは少し考えた。

「悪くないと思う」

「それだけ?」

「カイルの引き出しが、もう一つ重くなるだろう」

エルザが少し止まった。

それから、静かに笑った。

「良いことね、それ」

「そうだ」

川の音がした。

ナギが、尻尾を振った。

穏やかに振った。

それで十分だった。


翌朝、マティアスは出発した。

エルザが見送りに来た。

フワンも来た。ナギも来た。ルドルフも来た。

「また来るのね」とエルザは言った。

「ああ」

「夏も?」

「来る」

エルザは笑った。

マティアスは馬に乗った。

小川沿いの道を、南へ向かった。

名前を知らない花の香りが、しばらくついてきた。


つづく


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