第二話「小川と、犬と、芽が出た畑」
三日かかった。
今年の馬は、確かに気が荒かった。
途中で一度、何もないところで急に止まった。
マティアスは少し待った。
馬が、また歩き出した。
「気が荒いだけで、悪い馬ではない」と厩番は言っていたが、その通りらしかった。
三日目の午後、小川が見えた。
春の川は、雪解け水で少し増えていた。
きらきらと光っていた。
北へ向かった。
一里。
二里。
村が見えた。
ルドルフが来た。
今年も、ルドルフが最初だった。
「ああ」とマティアスは言った。
ルドルフは尻尾を振った。
それから、もう一匹、子犬が来た。
まだ小さかった。
川の方からではなく、畑の方から来た。
マティアスはその犬を見た。
名前のない犬だった。
まだ、誰も呼んでいない犬だった。
エルザは畑にいた。
何かの種を植えていた。
マティアスが近づくと、振り返った。
笑った。
「来た」と言った。
「ああ」とマティアスは言った。
「今日着いたのね」
「そうだ」
「今年の馬、気が荒いって聞いてたわよ」
「そうだ」
「大丈夫だった?」
「一度止まった。それだけだ」
「それだけで済んだのね」
「そうだ」
マティアスは少し間を置いた。
「エルザ」
「なに」
「詫びなければならないことがある」
エルザが手を止めた。
「なに、改まって」
「今年、来られなかった」
「手紙で読んだわよ。捕まってたのと、港町にいたのと」
「分かっている。それでも、詫びる」
エルザは少し首をかしげた。
「なんで。あなたのせいじゃないでしょう」
「理由がどうであれ、来ると言ったことを、来なかった」
「捕まってたんだから仕方ないじゃない」
「仕方ないでは、済まないと思っている」
エルザはしばらくマティアスを見ていた。
「律儀すぎるわよ、それ」
「そうかもしれない」
「じゃあ、聞くけど」とエルザは言った。「来られるようになった時、真っ先にどうした?」
「馬を用意させた」
「捕まってた場所から出て、すぐに?」
「すぐにだ」
「港町からも?」
「船が着いた日のうちに、出た」
エルザは少し笑った。
「それで十分よ」
「十分ではない」
「なんで」
マティアスは少し考えた。
「今年は、一度も来られなかった。それは、初めてのことだ」
エルザは畑の土を見た。
それから、また顔を上げた。
「初めてだったから、余計に、律儀になってるのね」
「そうかもしれない」
「私は、待つのは平気よ。何年でも待てるって、前にも言ったでしょう」
「言ってくれた」
「でも」
「なんだ」
エルザは少し間を置いた。
「あなたが、無事だったことの方が、来られなかったことより、ずっと大事だったの」
マティアスは何も言わなかった。
「だから、謝らなくていい」とエルザは言った。「その代わり——」
「なんだ」
「来年は、ちゃんと三回来て」
「来る」
「約束よ」
「約束する」
エルザは笑った。
それから、少し声を落として言った。
「じゃあ、もう言える?」
マティアスは少し止まった。
何のことか、聞くまでもなかった。
「……もう少しだけ待ってくれ」
「なんで」
「今、詫び終えたばかりだ。言葉の準備が、まだできていない」
エルザはしばらくマティアスを見ていた。
それから、小さく笑った。
「知ってる」
「知っているのか」
「急がなくていいって、前に言ったでしょ」
「言った」
「今もそう思ってる」
エルザは畑を見た。
土の上に、小さな芽が二本、並んで出ていた。
「見て」
「芽か」
「フワンが植えたのよ。種を二粒」
「二粒」
「一粒はうちの畑から取った種。もう一粒は、フワンが遠くでもらってきた種」
マティアスは二本の芽を見た。
一本は少し大きかった。
もう一本は少し小さかった。
どちらも、春の光の中で、しっかり立っていた。
「並んでいるな」
「そうなのよ」とエルザは言った。「別々の場所から来た種が、同じ土に入って、並んで芽を出したの」
「そうか」
「なんか、いいなって思って」
マティアスは少し間を置いた。
「悪くない」
エルザが笑った。
「あなたも、なんかそういう感じよね」
「どういう感じだ」
「別のところから来て、ここに来て、並んでる感じ」
マティアスは少し考えた。
「そうかもしれない」
エルザはまた畑を見た。
名前のない犬が、エルザの足元に来た。
「この子、まだ名前がないのよ」
「そうか」
「フワンが考えてるんだけど、決まらないみたい」
「そうか」
「今度、一緒に決めてくれる?」
「ああ」
エルザが笑った。
「相変わらず即答ね」
「決めることに迷う理由がない」
「名前を決めることに?」
「お前が頼むことに」
エルザが少し止まった。
それから、笑った。
今年も、ただ笑った。
「相変わらずよね、そういうところ」
「そうかもしれない」
その夜、着いて最初の夜、シチューを三人で食べた。
フワンが、去年より少し背が高くなっていた。
「マティアスさん、馬、どうでしたか」
「どうとは」
「気に入りましたか」
「気が荒い」
「でも悪い馬じゃないですよね」
「そうだ」
フワンがにやにやした。
「マティアスさんの馬にも、名前つけますか」
マティアスは少し考えた。
「考えておく」
「考えるじゃなくて」
「善処する」
フワンが笑った。
「それ、カイルさんの言葉ですよね」
「そうだ」
エルザが、窓の外を見た。
厩の前に、オットーがいた。
栗毛の馬だった。
大人しく、草を食んでいた。
「オットーは元気そうだな」
「元気よ」とエルザは言った。「フワンが毎日世話してるの」
「そうか」
「相変わらず、ちょっと困った顔して立ってるけどね」
マティアスはオットーを見た。
確かに、少し困ったような顔をしていた。
「似ているな」
「でしょ」とエルザは言った。「名付けて正解だったわよ」
フワンがにやにやした。
「マティアスさんの新しい馬、オットーとは仲良くなれそうですか」
「分からない」
「オットーは誰にでも優しいですよ」
「そうか」
オットーが、新しい馬の方を見た。
新しい馬は、少し気が荒かったが、オットーを見ると、少し落ち着いたようだった。
「ほら」とエルザが言った。
「そうかもしれない」
「カイルさん、来年も来ますか」
「来るだろう」
「アンナさんって人と一緒に来るかもしれないって、エルザが言ってました」
マティアスは少し止まった。
「エルザ、誰に聞いた」
エルザが少し肩をすくめた。
「カイルさんからの手紙、フワンにも来るのよ。男同士の話、って言って秘密にされるけど、たまに漏れるの」
「そうか」
フワンがにやにやした。
「楽しみですね、アンナさんって人」
「そうかもしれない」
窓の外で、春の風が吹いていた。
名前のない犬が、縁側で眠っていた。
それで十分だった。
つづく




