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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater
第四章 海と、嵐と、名前を持つ女

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第六話「残りの日々と、変わらない歌」


嵐の後、ヴェルタは少しずつ、いつもの姿に戻っていった。

壊れた船は、修理されるか、解体された。

流された木箱は、拾われて、元の場所に戻された。

看板も、立て直された。

一週間ほどで、港は、嵐の前とほとんど同じ騒がしさになった。

ただ、岩礁の近くには、しばらく、船の残骸の一部が残っていた。

誰も、それを取りに行こうとしなかった。

危険な場所だった。

波が、その残骸に、何度も当たっていた。


マティアスの船が出るまで、残り一ヶ月になった。

その間、毎日のように、西側の防波堤を通った。

イレーネは、たいてい、そこにいた。

歌っていることもあった。

歌っていないこともあった。

どちらでも、マティアスは足を止めた。


「あの船の残骸」とマティアスは、ある日聞いた。「見えるか」

「見えます」とイレーネは言った。

「気になるか」

イレーネは少し考えた。

「気になります」

「なぜだ」

「あの船にも、名前がありました」とイレーネは言った。「『クロレーヴ』という名前です」

「知っているのか」

「長く、この港を出入りしていた船です」

イレーネは、岩礁の方を見た。

「名前のある船は、いつか壊れます」とイレーネは言った。「修理されて、また壊れて、最後には、修理されなくなる」

「そうだろうな」

「名前のない海は、壊れません」

マティアスは、海を見た。

青くて、光っていた。

嵐の後だとは、もう思えないほど、穏やかだった。

「名前のない歌も、壊れないのか」

イレーネは、少し笑った。

「歌は、形がないので」

「形がないものは、壊れないのか」

「分かりません」とイレーネは言った。「ただ、今まで、壊れたことはありません」


ある日、行商人が来た。

嵐の夜に助けられた、あの行商人だった。

怪我は、もう治っていた。

「お礼を言いたくて」と行商人は言った。「あの夜、助けていただいた方々に」

「礼はクロスに言うべきだ」とマティアスは言った。「船を出したのはクロスだ」

「もう言いました」と行商人は言った。「それから、あなたにも」

行商人は、少し頭を下げた。

それから、イレーネを見た。

「それと——歌を、もう一度聞かせてもらえませんか」

イレーネは、少し驚いた顔をした。

「いいんですか。船を失ったばかりなのに」

「失ったからこそです」と行商人は言った。「あの夜、岩の上で、ずっと、あの歌のことを考えていました。聞こえないはずなのに、聞こえている気がして」

イレーネは、しばらく行商人を見た。

それから、防波堤の縁に座った。

歌い始めた。

低くて、海の音に溶け込む声だった。

行商人は、しばらく、その歌を聞いていた。

目を閉じていた。

歌が終わった。

行商人は、目を開けた。

「……ありがとうございました」

「どういたしまして」

行商人は、もう一度頭を下げて、去っていった。

マティアスは、その後ろ姿を見ていた。

「あの男は」とマティアスは言った。「今度の船には乗るのか」

「乗るそうです」とイレーネは言った。「次は、もっと小さな船で」

「怖くないのか」

「怖いでしょう」とイレーネは言った。「それでも、行かなければならない場所が、あるんだと思います」

マティアスは、少し考えた。

「分かる気がする」

「ええ」とイレーネは言った。「あなたにも、そういう場所が、ありますね」

「ある」

「その場所の話を、もう少し聞いてもいいですか」

マティアスは、海を見た。

青い海が、光っていた。

「白い花が咲く村だ」とマティアスは言った。「名前を知らない花が」

「名前のない花、ですか」

「そうだ」

イレーネは、少し笑った。

「名前のないものが、好きなんですね、あなたは」

「そうかもしれない」

「歌も、花も」

「そうだ」

「もう一つ、聞いてもいいですか」

「なんだ」

「その村に、誰かいるんですね」

マティアスは、少し間を置いた。

「いる」

「どんな人ですか」

「明るい。うるさい。よく笑う」

イレーネは、少し笑った。

「あなたとは、正反対ですね」

「そうかもしれない」

「でも——」イレーネは海を見た。「あなたの目が、少し変わりました。今」

マティアスは、何も言わなかった。

「正直に言うと」とイレーネは言った。「もう、分かっていました。最初の日から」

「何が」

「あなたの鎧の中に、もう、誰かがいるということが」

風が吹いた。

波が、防波堤に当たって、砕けた。

「だから」とイレーネは言った。「安心して、ここにいられました」

「安心、とは」

「私のような年寄りが、若い男に、毎日声をかけられる。それを、変な意味に取られないか、最初は、少し気にしていました」

マティアスは、少し驚いた。

「考えなかった」

「ええ。あなたは、考えなかったでしょうね」イレーネは、声に出して笑った。「だから、安心できたんです」

マティアスは、少し考えた。

「お前にも、誰かいるのか」

イレーネは、しばらく黙った。

波の音だけがした。

「昔、いました」とイレーネは言った。

「今は」

「今は、いません」

「……そうか」

「歌が、その代わりです」とイレーネは言った。「海から聞こえる歌が」

マティアスは、何も言わなかった。

「悲しい話ではありません」とイレーネは言った。「ただ、そうなった、というだけのことです」

「そうか」

「あなたの村の人にも、いつか話してください。年寄りが一人、港で歌っていた、と」

「話す」

「ついでに、こうも言ってください。その年寄りは、嵐の日に行商人を一人、安心させた、と」

マティアスは、少し笑った。

ごく小さく、口の端を上げた。

「話す」

イレーネは、その笑い方を見て、少し目を見開いた。

「……笑い方があるんですね、あなたにも」

「ある」

「初めて見ました」

「そうか」

「いい笑い方ですね」とイレーネは言った。「その人にも、見せていますか」

マティアスは、少し間を置いた。

「分からない」

「分からない、ですか」

「自分では、見えない」

イレーネは、また笑った。

「それも、いいですね」


つづく


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