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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第四章 海と、嵐と、名前を持つ女

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第五話「夜明けと、知った顔」


詰所は、明かりが点いていた。

クロスが、すでに数人の隊員と地図を広げていた。

マティアスとイレーネが入ってきたのを見て、クロスは少し驚いた顔をした。

「あなた方も見ていたんですか」

「見ていた」とマティアスは言った。

「灯が消えるところを」とイレーネが言った。

クロスの表情が変わった。

「位置は」

「西側の防波堤から、北西の方向。距離は——」イレーネは少し考えた。「いつもの航路の、岩礁の手前あたりだと思います」

クロスは地図に目を落とした。

「ヴェルタの岩礁か」

「ええ」

クロスは隊員の一人に何かを指示した。隊員が走っていった。

「マティアス殿」

「なんだ」

「夜明けまで、あと二時間ほどです。手伝ってもらえますか」

「もちろんだ」

「イレーネさんは」

「ここにいます」とイレーネは言った。「合羽と、毛布の用意を」

「分かりました」

詰所の中は、慌ただしくなった。

ランタンが、いくつも灯された。

ロープが運ばれてきた。

マティアスは、それを手伝った。

何をすればいいか、考える必要はなかった。

体が、自然に動いた。

慣れた動きだった。

イレーネは、奥の部屋で、毛布を重ねていた。

手際が良かった。

何度も、こういう夜を経験してきた手際だった。


夜明け前、風が少し弱まった。

雨も、弱くなっていた。

船が二隻、出港の準備を整えていた。

マティアスは、その一隻に乗ることになった。

クロスが言った。

「危険な仕事です。それでも乗りますか」

「乗る」

「即答ですね」

「迷う理由がない」

クロスは少し笑った。

「噂どおりの方ですね」

船が出た。

波は、まだ高かった。

だが、夜よりは、ずっと見通しがよくなっていた。

灰色の海が、夜明け前の光の中で、少しずつ姿を見せていった。

岩礁が見えた。

船の残骸が、岩に打ちつけられていた。

木の破片が、波間に浮いていた。

人影が、岩の上に見えた。

一人、二人——

動いていた。

生きていた。

マティアスは、その人影に向かって、ロープを投げた。


岩の上にいたのは、三人だった。

郵便船の船員が二人と、乗客が一人。

乗客は、行商人だった。

全員、生きていた。

怪我はしていたが、生きていた。

船に引き上げられた行商人が、震えながら言った。

「……月に二度の船が、こんなことになるとは」

「運が良かった」とクロスが言った。「岩礁に乗ったから、流されずに済んだ」

「運が良かった、ですか」行商人は、少し笑った。震えながら。「岩にぶつかった瞬間は、そう思えませんでしたが」

船は、港へ戻った。

夜明けの光の中で、ヴェルタの港が見えてきた。

昨夜とは、全然違う色だった。

灰色で、静かだった。

嵐の後の、静かな朝だった。


詰所に戻ると、イレーネが毛布を持って待っていた。

助けられた三人に、毛布をかけた。

行商人が、イレーネを見て、少し驚いた顔をした。

「……あなたは」

「ご存知ですか」とイレーネは言った。

「以前、この港に来た時に、歌を聞きました」とその行商人は言った。「防波堤で。名前のない歌だと、誰かが言っていた」

イレーネは、少し笑った。

「覚えていてくれて、嬉しいです」

「あの歌のおかげで——」行商人は、毛布を握りながら言った。「いえ。なんでもないです」

イレーネは、何も聞かなかった。

ただ、毛布を、もう一枚かけた。


マティアスは、詰所の外に出た。

朝の光が、港全体を照らしていた。

昨夜の嵐の跡が、あちこちに残っていた。

倒れた看板、流された木箱、傷ついた船。

それでも——

港は、いつもの騒がしさを、少しずつ取り戻し始めていた。

漁師たちが、船の様子を見に出てきていた。

「大変な夜でしたね」

イレーネの声がした。

隣に来ていた。

合羽は、もう着ていなかった。

濡れた髪が、朝の光の中で、白く光っていた。

「ああ」

「三人とも、生きていました」

「そうだな」

「良かった、と思っていいんでしょうか」とイレーネは言った。「船は失われました。それでも」

「良かった」とマティアスは言った。「人が生きていた」

イレーネは、しばらくマティアスを見た。

それから、海を見た。

朝の海は、青くなり始めていた。

昨夜の緑がかった黒は、もう、どこにもなかった。

「あの歌のおかげで、と言っていましたね」とイレーネは言った。「あの行商人」

「言っていた」

「分かりません、自分では」イレーネは静かに言った。「歌が、何かの役に立っているのかどうか」

「役に立っていたかもしれない」

「そうでしょうか」

「足を止めた人間がいる」とマティアスは言った。「それは事実だ」

イレーネは、少し笑った。

声を出さない笑い方だった。

「あなたのことですか」

「そうだ」

「正直ですね」

「さっきも言われた」

「また言いたくなるんです」

朝の風が吹いた。

海の匂いがした。

塩と、雨上がりの匂いが混じっていた。

マティアスは、その匂いを、しばらく感じていた。

鎧は、今朝も着ていた。

隙間は、いつも通りだった。

ただ——昨夜のことは、すぐには言葉にならなかった。

怖くて、綺麗なもの、という言葉を、もう一度考えた。

怖いだけのものも、ある。

それでも、その後に来る、静かな朝のようなものも、ある。

それを、何と呼ぶのか、まだ分からなかった。

分からないまま、マティアスは港を見た。

いつもの騒がしさが、少しずつ戻っていた。


その夜、エルザへの手紙を書いた。


エルザ

嵐が来た。本物の嵐だった。

郵便船が一隻、転覆した。三人とも、無事だった。

夜通し、救助の手伝いをした。

怖いものを見た。綺麗だとは思えなかった。

それでも、朝が来て、港はいつも通りに戻り始めている。

それを見て、少し、安心した。

ルドルフの散歩は増やしたか。

マティアス


書き終えた。

封をした。

郵便船は、しばらく来ないだろう。

次の便がいつになるか、クロスに聞いておく必要があった。

マティアスは窓を開けた。

夜の海が広がっていた。

昨夜と同じ、夜の海だった。

だが、今夜は、静かだった。

月が出ていた。

光が、揺れていた。

変わり続けていた。

鎧の隙間から、海の風が通り抜けていった。

冷たくて、塩の匂いがした。

名前を知らない花の香りとは、全然違った。

でも、悪くなかった。

波の音が、ずっと聞こえていた。


つづく

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