第五話「夜明けと、知った顔」
詰所は、明かりが点いていた。
クロスが、すでに数人の隊員と地図を広げていた。
マティアスとイレーネが入ってきたのを見て、クロスは少し驚いた顔をした。
「あなた方も見ていたんですか」
「見ていた」とマティアスは言った。
「灯が消えるところを」とイレーネが言った。
クロスの表情が変わった。
「位置は」
「西側の防波堤から、北西の方向。距離は——」イレーネは少し考えた。「いつもの航路の、岩礁の手前あたりだと思います」
クロスは地図に目を落とした。
「ヴェルタの岩礁か」
「ええ」
クロスは隊員の一人に何かを指示した。隊員が走っていった。
「マティアス殿」
「なんだ」
「夜明けまで、あと二時間ほどです。手伝ってもらえますか」
「もちろんだ」
「イレーネさんは」
「ここにいます」とイレーネは言った。「合羽と、毛布の用意を」
「分かりました」
詰所の中は、慌ただしくなった。
ランタンが、いくつも灯された。
ロープが運ばれてきた。
マティアスは、それを手伝った。
何をすればいいか、考える必要はなかった。
体が、自然に動いた。
慣れた動きだった。
イレーネは、奥の部屋で、毛布を重ねていた。
手際が良かった。
何度も、こういう夜を経験してきた手際だった。
夜明け前、風が少し弱まった。
雨も、弱くなっていた。
船が二隻、出港の準備を整えていた。
マティアスは、その一隻に乗ることになった。
クロスが言った。
「危険な仕事です。それでも乗りますか」
「乗る」
「即答ですね」
「迷う理由がない」
クロスは少し笑った。
「噂どおりの方ですね」
船が出た。
波は、まだ高かった。
だが、夜よりは、ずっと見通しがよくなっていた。
灰色の海が、夜明け前の光の中で、少しずつ姿を見せていった。
岩礁が見えた。
船の残骸が、岩に打ちつけられていた。
木の破片が、波間に浮いていた。
人影が、岩の上に見えた。
一人、二人——
動いていた。
生きていた。
マティアスは、その人影に向かって、ロープを投げた。
岩の上にいたのは、三人だった。
郵便船の船員が二人と、乗客が一人。
乗客は、行商人だった。
全員、生きていた。
怪我はしていたが、生きていた。
船に引き上げられた行商人が、震えながら言った。
「……月に二度の船が、こんなことになるとは」
「運が良かった」とクロスが言った。「岩礁に乗ったから、流されずに済んだ」
「運が良かった、ですか」行商人は、少し笑った。震えながら。「岩にぶつかった瞬間は、そう思えませんでしたが」
船は、港へ戻った。
夜明けの光の中で、ヴェルタの港が見えてきた。
昨夜とは、全然違う色だった。
灰色で、静かだった。
嵐の後の、静かな朝だった。
詰所に戻ると、イレーネが毛布を持って待っていた。
助けられた三人に、毛布をかけた。
行商人が、イレーネを見て、少し驚いた顔をした。
「……あなたは」
「ご存知ですか」とイレーネは言った。
「以前、この港に来た時に、歌を聞きました」とその行商人は言った。「防波堤で。名前のない歌だと、誰かが言っていた」
イレーネは、少し笑った。
「覚えていてくれて、嬉しいです」
「あの歌のおかげで——」行商人は、毛布を握りながら言った。「いえ。なんでもないです」
イレーネは、何も聞かなかった。
ただ、毛布を、もう一枚かけた。
マティアスは、詰所の外に出た。
朝の光が、港全体を照らしていた。
昨夜の嵐の跡が、あちこちに残っていた。
倒れた看板、流された木箱、傷ついた船。
それでも——
港は、いつもの騒がしさを、少しずつ取り戻し始めていた。
漁師たちが、船の様子を見に出てきていた。
「大変な夜でしたね」
イレーネの声がした。
隣に来ていた。
合羽は、もう着ていなかった。
濡れた髪が、朝の光の中で、白く光っていた。
「ああ」
「三人とも、生きていました」
「そうだな」
「良かった、と思っていいんでしょうか」とイレーネは言った。「船は失われました。それでも」
「良かった」とマティアスは言った。「人が生きていた」
イレーネは、しばらくマティアスを見た。
それから、海を見た。
朝の海は、青くなり始めていた。
昨夜の緑がかった黒は、もう、どこにもなかった。
「あの歌のおかげで、と言っていましたね」とイレーネは言った。「あの行商人」
「言っていた」
「分かりません、自分では」イレーネは静かに言った。「歌が、何かの役に立っているのかどうか」
「役に立っていたかもしれない」
「そうでしょうか」
「足を止めた人間がいる」とマティアスは言った。「それは事実だ」
イレーネは、少し笑った。
声を出さない笑い方だった。
「あなたのことですか」
「そうだ」
「正直ですね」
「さっきも言われた」
「また言いたくなるんです」
朝の風が吹いた。
海の匂いがした。
塩と、雨上がりの匂いが混じっていた。
マティアスは、その匂いを、しばらく感じていた。
鎧は、今朝も着ていた。
隙間は、いつも通りだった。
ただ——昨夜のことは、すぐには言葉にならなかった。
怖くて、綺麗なもの、という言葉を、もう一度考えた。
怖いだけのものも、ある。
それでも、その後に来る、静かな朝のようなものも、ある。
それを、何と呼ぶのか、まだ分からなかった。
分からないまま、マティアスは港を見た。
いつもの騒がしさが、少しずつ戻っていた。
その夜、エルザへの手紙を書いた。
エルザ
嵐が来た。本物の嵐だった。
郵便船が一隻、転覆した。三人とも、無事だった。
夜通し、救助の手伝いをした。
怖いものを見た。綺麗だとは思えなかった。
それでも、朝が来て、港はいつも通りに戻り始めている。
それを見て、少し、安心した。
ルドルフの散歩は増やしたか。
マティアス
書き終えた。
封をした。
郵便船は、しばらく来ないだろう。
次の便がいつになるか、クロスに聞いておく必要があった。
マティアスは窓を開けた。
夜の海が広がっていた。
昨夜と同じ、夜の海だった。
だが、今夜は、静かだった。
月が出ていた。
光が、揺れていた。
変わり続けていた。
鎧の隙間から、海の風が通り抜けていった。
冷たくて、塩の匂いがした。
名前を知らない花の香りとは、全然違った。
でも、悪くなかった。
波の音が、ずっと聞こえていた。
つづく




