第四話「嵐の夜と、灯と」
夜半過ぎ、嵐が来た。
宿の窓が、激しく鳴っていた。
雨が、横から叩きつけていた。
風の音が、絶え間なく続いていた。波の音と区別がつかなかった。すべてが、一つの大きな音になっていた。
マティアスは、宿の部屋で、それを聞いていた。
眠れなかった。
窓を見た。
雨で、外がよく見えなかった。
それでも、海の方向だけは分かった。
黒かった。
何も見えない黒さだった。
マティアスは少し考えた。
それから、外套を着た。
港まで歩くのは、思っていたより難しかった。
風が、まっすぐ立っているのを許さなかった。
雨が、視界を奪っていた。
それでも、西側の防波堤へ向かった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、足が向いた。
防波堤に着いた。
誰もいなかった。
当然だった。
こんな夜に、外に出る者はいない。
マティアスは防波堤の手前に立った。
風に煽られて、一度、体勢を崩した。
踏みとどまった。
海を見た。
何も見えなかった。
ただ、音だけがあった。
波が、防波堤を越えて、こちらまで届いていた。
水しぶきが、雨と区別がつかなくなっていた。
「言ったじゃないですか」
声がした。
振り返った。
イレーネだった。
雨合羽を着ていた。古い、何度も繕われた合羽だった。
「来るなと言った」とマティアスは言った。
「あなたもです」とイレーネは言った。
「お前も来るなと言われていた」
「言ったのは私です」
「だから——」
「聞こえるんです、今夜は」とイレーネは言った。「特に、強く」
マティアスは少し止まった。
「歌が」
「いえ」
イレーネは海を見た。
「今夜は、歌じゃない」
風が吹いた。
雨が、横から叩きつけた。
二人は、防波堤の手前に並んで立った。
それ以上、近づかなかった。
それ以上、近づくのは、危険だった。
その時だった。
海の向こうに、光が見えた。
一つではなかった。
複数の、小さな光だった。
ランタンの光だった。
「船だ」とマティアスは言った。
「ええ」
「こんな夜に」
「定期船です。月に二度の」
マティアスは少し止まった。
「郵便船か」
「ええ」
雨の向こうで、光が揺れていた。
大きく、揺れていた。
波に、もまれていた。
マティアスは、その光を見続けた。
光が、横に大きく傾いた。
そのまま、しばらく傾いたままだった。
それから——
光が、消えた。
一つ、また一つ。
最後の光が、消えるまで、時間はかからなかった。
波の音だけが、残った。
「……転覆した」とマティアスは言った。
声が、自分のものに聞こえなかった。
「ええ」とイレーネは言った。
イレーネの声も、いつもより低かった。
雨の中で、二人は、何も見えない海を見ていた。
光が消えた場所を、見ていた。
何も、見えなかった。
ただ、波の音だけがあった。
「行かなくては」とマティアスは言った。
「今は無理です」とイレーネは言った。
「人が——」
「今、海に出たら、増えるのは助かる人数じゃなくて、死ぬ人数です」
マティアスは止まった。
イレーネの声は、静かだった。
だが、確かだった。
「クロス殿のところへ」とイレーネは言った。「夜明けと同時に、救助の船が出ます。いつもそうです」
「いつも、とは」
「この海で、何年も生きていれば」とイレーネは言った。「何度かは、こういう夜があります」
風が、また強く吹いた。
マティアスは、何も見えない海を見続けた。
怖かった。
そう思った。
同時に——
それを、綺麗だとは、今は思わなかった。
イレーネが言っていたことを思い出した。
怖くて、綺麗なもの。
だが、今、目の前にあるものは、怖いだけだった。
綺麗だと思える余地は、どこにもなかった。
「綺麗ではないな」とマティアスは言った。
イレーネは、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「今は、そうです」
「今は?」
「嵐の海が、怖くて綺麗だ、と言ったのは——」イレーネは、雨の中で、海を見たまま言った。「誰も乗っていない時の話です」
マティアスは、何も言わなかった。
雨が、二人を濡らし続けていた。
「クロス殿のところへ行きましょう」とイレーネは言った。「あなたも、人手として数えられるはずです」
「分かった」
二人は、嵐の中を、警備隊の詰所へ向かった。
つづく




