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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第四章 海と、嵐と、名前を持つ女

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第三話「嵐の前と、嵐の中と」


翌日、空が重かった。

朝から雲が厚く、風が強かった。港の船が、いつもより激しく揺れていた。漁師たちが早めに船を引き上げていた。

クロスが言った。

「今夜か、明日の朝には来ますね」

「嵐か」

「この時期の嵐は本物ですよ。去年は船が三隻やられた」

「人は」

「幸い、なかった。でも毎年ひやひやする」

マティアスは港を見た。

漁師たちが、手際よく船を固定していた。

慣れた動きだった。

毎年、こうしているのだろう。

「準備は何をすればいい」

「倉庫の扉を補強して、係留ロープを確認して、あとは待つだけです」クロスは空を見上げた。「あなたは宿にいてください。慣れていない人間が外に出ると、足元をすくわれる」

「分かった」

「本当に分かりましたか」

「善処する」

クロスは少し笑った。

「それは信用できない答えですね」


午後、西側の防波堤を通った。

イレーネがいた。

今日は立っていた。

防波堤の縁に立って、海を見ていた。

風が強くて、白髪の混じった髪が激しく揺れていた。

「来るな」とイレーネは言った。振り返らずに。

「知らせると言った」

「知らせた。だから来なくていい」

「見てみたいと言った」

「明日でいい。今日はまだ来ていない」

マティアスはイレーネの隣に立った。

海を見た。

昨日の灰色より、さらに暗い色だった。

緑がかった黒だった。

波が高かった。

防波堤に当たる音が、昨日より大きかった。

「これが嵐の前か」

「そうです」

「怖くはないのか」

「怖い」とイレーネは言った。間を置かずに。

「それでもここにいるのか」

「ここにいないと、聞こえなくなるから」

「歌が」

「ええ」

風が吹いた。

波が来た。

今日の波は、昨日より大きかった。

防波堤に当たって、砕けて、水しぶきが上がった。

マティアスの顔に、塩水がかかった。

「濡れましたよ」とイレーネが言った。

「分かっている」

「それでもいますか」

「ああ」

イレーネは少し笑った。

声を出さない笑い方で。

「正直ですね」

「さっきも言った」

「言わせたくなるんです、あなたには」

風がまた強くなった。

雲が、海の上に低く垂れていた。

「今夜来るな」とマティアスは言った。

「来ます」とイレーネは言った。「これは前触れです。本番は夜半」

「お前——」

マティアスは止まった。

「あなたは、今夜どこにいる」

イレーネは少し驚いた顔をした。

「家ですよ。当然」

「家はどこだ」

「港の裏手です。古い家で、嵐には慣れています」

「一人か」

「一人です。長いですから」

マティアスは少し考えた。

「無理はしないでくれ」

イレーネはしばらくマティアスを見た。

それから、また笑った。

「心配してくれるんですね」

「事実を言っている」

「ええ。知っています」

風が、また一段強くなった。

「クロス殿の言う通り、宿にいてください」とイレーネは言った。「今夜は」

「分かった」

「本当に分かりましたか」

マティアスは少し止まった。

「……善処する」

イレーネは、今度は声に出して笑った。

低くて、小さい笑い声だった。

「その返事、クロス殿にも聞かせてあげたい」

「聞いている」

「あら」

イレーネは海を見た。

緑がかった黒い海が、防波堤に何度も打ちつけていた。

「明日には、嵐の海が見られますよ」

「楽しみだ」

「不謹慎ですね」

「そうかもしれない」

イレーネはまた笑った。

それから、防波堤を下りた。

「では」

「ああ」

イレーネは歩き始めた。

風に煽られながらも、足取りは確かだった。

マティアスはその後ろ姿を見ていた。

何か、いつもと違う風が、強く吹いていた。

今度は、気のせいだと思わなかった。


つづく



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