第三話「嵐の前と、嵐の中と」
翌日、空が重かった。
朝から雲が厚く、風が強かった。港の船が、いつもより激しく揺れていた。漁師たちが早めに船を引き上げていた。
クロスが言った。
「今夜か、明日の朝には来ますね」
「嵐か」
「この時期の嵐は本物ですよ。去年は船が三隻やられた」
「人は」
「幸い、なかった。でも毎年ひやひやする」
マティアスは港を見た。
漁師たちが、手際よく船を固定していた。
慣れた動きだった。
毎年、こうしているのだろう。
「準備は何をすればいい」
「倉庫の扉を補強して、係留ロープを確認して、あとは待つだけです」クロスは空を見上げた。「あなたは宿にいてください。慣れていない人間が外に出ると、足元をすくわれる」
「分かった」
「本当に分かりましたか」
「善処する」
クロスは少し笑った。
「それは信用できない答えですね」
午後、西側の防波堤を通った。
イレーネがいた。
今日は立っていた。
防波堤の縁に立って、海を見ていた。
風が強くて、白髪の混じった髪が激しく揺れていた。
「来るな」とイレーネは言った。振り返らずに。
「知らせると言った」
「知らせた。だから来なくていい」
「見てみたいと言った」
「明日でいい。今日はまだ来ていない」
マティアスはイレーネの隣に立った。
海を見た。
昨日の灰色より、さらに暗い色だった。
緑がかった黒だった。
波が高かった。
防波堤に当たる音が、昨日より大きかった。
「これが嵐の前か」
「そうです」
「怖くはないのか」
「怖い」とイレーネは言った。間を置かずに。
「それでもここにいるのか」
「ここにいないと、聞こえなくなるから」
「歌が」
「ええ」
風が吹いた。
波が来た。
今日の波は、昨日より大きかった。
防波堤に当たって、砕けて、水しぶきが上がった。
マティアスの顔に、塩水がかかった。
「濡れましたよ」とイレーネが言った。
「分かっている」
「それでもいますか」
「ああ」
イレーネは少し笑った。
声を出さない笑い方で。
「正直ですね」
「さっきも言った」
「言わせたくなるんです、あなたには」
風がまた強くなった。
雲が、海の上に低く垂れていた。
「今夜来るな」とマティアスは言った。
「来ます」とイレーネは言った。「これは前触れです。本番は夜半」
「お前——」
マティアスは止まった。
「あなたは、今夜どこにいる」
イレーネは少し驚いた顔をした。
「家ですよ。当然」
「家はどこだ」
「港の裏手です。古い家で、嵐には慣れています」
「一人か」
「一人です。長いですから」
マティアスは少し考えた。
「無理はしないでくれ」
イレーネはしばらくマティアスを見た。
それから、また笑った。
「心配してくれるんですね」
「事実を言っている」
「ええ。知っています」
風が、また一段強くなった。
「クロス殿の言う通り、宿にいてください」とイレーネは言った。「今夜は」
「分かった」
「本当に分かりましたか」
マティアスは少し止まった。
「……善処する」
イレーネは、今度は声に出して笑った。
低くて、小さい笑い声だった。
「その返事、クロス殿にも聞かせてあげたい」
「聞いている」
「あら」
イレーネは海を見た。
緑がかった黒い海が、防波堤に何度も打ちつけていた。
「明日には、嵐の海が見られますよ」
「楽しみだ」
「不謹慎ですね」
「そうかもしれない」
イレーネはまた笑った。
それから、防波堤を下りた。
「では」
「ああ」
イレーネは歩き始めた。
風に煽られながらも、足取りは確かだった。
マティアスはその後ろ姿を見ていた。
何か、いつもと違う風が、強く吹いていた。
今度は、気のせいだと思わなかった。
つづく




