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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第四章 海と、嵐と、名前を持つ女

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第二話「名前のない歌と、嵐の前」


翌日、西側の防波堤を通った。

イレーネはいなかった。

波の音だけがした。

マティアスは少し立ち止まった。

立ち止まった理由を、自分でも正確には分からなかった。

任務の確認だ、と思うことにした。

防波堤の状態を確認して、歩き始めた。


翌々日も通った。

いなかった。


三日目も通った。

いた。

防波堤の縁に腰かけて、海を見ていた。

歌っていなかった。

ただ、海を見ていた。

マティアスが近づく足音を聞いて、振り返った。

海と同じ色の目が、こちらを見た。

「また来ましたね」

「この道が効率がいいと言った」

「言いましたね」イレーネは海に視線を戻した。「今日は歌っていませんよ」

「見れば分かる」

「聞こえないでしょう、歌っていないんだから」

「そうだな」

マティアスは防波堤の横に立った。

海を見た。

今日は曇っていた。

海の色が、昨日と違った。

青ではなく、灰色に近かった。

重い色だった。

でも、悪くなかった。

「曇りの日の海は好きか」とマティアスは聞いた。

イレーネは少し考えた。

「好きです」

「理由は」

「色が落ち着くから。晴れた日は光が多すぎて、海が主張しすぎる気がして」

「光が多すぎると主張しすぎるのか」

「私にはそう見える。長く生きると、そう見えてくるんですよ」

マティアスは曇りの海を見た。

灰色の、静かな海だった。

確かに、主張していなかった。

ただ、そこにあった。

「そうかもしれない」

「あなたは? 曇りの日は好きですか」

「嫌いではない」

「それだけ?」

「……雨の中を三日間走ったことがある。その時以来、曇りは雨の前兆に見える」

イレーネは少し笑った。

声を出さない笑い方で。

「三日間、走ったんですか」

「走った」

「どこへ」

マティアスは少し間を置いた。

「大事な場所へ」

イレーネはマティアスを見た。

海と同じ色の目が、少し細くなった。

値踏みするのでも、詮索するのでもなく、ただ見ていた。

「大事な場所、か」

「そうだ」

「いい歳の取り方をする人間は、たいてい、そういう場所を持っているものですよ」

マティアスは少し間を置いた。

「半分は、属している場所がある」

「半分は違う、と」

「仕事がある。国境がある。自由に動けない時もある」

「それでも、戻る場所がある、ということですね」

「そうだ」

風が吹いた。

波が来た。

防波堤に当たって、砕けた。

しばらく、二人とも黙っていた。

波の音だけがした。

「今日は歌わないのか」とマティアスは言った。

「気分によって変わるんです」

「今日の気分は」

「歌わない気分」

「そうか」

「残念ですか」

マティアスは少し考えた。

「……そうかもしれない」

イレーネが振り返った。

少し驚いた顔をしていた。

「残念だと言える人なんですね」

「言える時は言う」

「正直ですね、やっぱり」

「そう言われることが多い」

「いいことですよ」イレーネは海を見た。「正直な人は、海に似ている」

「海に似ているとはどういう意味だ」

「隠さない、ということです。海は今日の色を隠さない。曇りの日は灰色で、晴れの日は青くて、嵐の日は黒い。そのままを見せる」

マティアスはしばらく考えた。

「私は感情を表に出さない方だが」

「出す出さないの話ではありません」イレーネは静かに言った。「嘘をつかない、ということです。あなたは嘘をつかない」

「……そうかもしれない」

「海もそうです。どんな顔をしているか、隠さない」

風が吹いた。

灰色の海が、静かに揺れていた。

マティアスはその海を見ながら、思った。

エルザも、似たようなことを言っていた。

鎧を着ているけれど、中に人がいるのは分かる、と。

言い方は違うが、見ているものは同じかもしれなかった。

「イレーネ」

「なんですか」

「あなたは、ここの生まれか」

「そうです。生まれてから、ずっとこの海を見ています」

「ずっとここにいるのか」

「ずっとここにいます」

「海から出たいと思ったことはないか」

イレーネはしばらく黙った。

波が来て、砕けた。

また来た。

また砕けた。

「ない」とイレーネは言った。

「理由は」

「海がないと、歌が聞こえなくなる気がして」

マティアスはイレーネを見た。

白髪の混じった髪が、風に揺れていた。

海と同じ色の目が、海を見ていた。

「海から歌が聞こえるというのは、本当のことか」

「本当です」

「どんな歌だ」

「その日によって違います。今日みたいな曇りの日は、低くて、長い歌。晴れた日は、明るくて短い歌。嵐の日は」

「嵐の日は」

「聞いたことがない」

「なぜだ」

「嵐の日は、海の声が大きすぎて、歌が聞こえなくなるから」

マティアスは少し考えた。

「嵐の日の海は、どんな顔をしているんだ」

イレーネは初めて、少し間を置いた。

答えるかどうか考えている間ではなかった。

思い出している間だった。

「怖い顔をしています」とイレーネは言った。

「怖いのか」

「でも、綺麗です」

「怖くて、綺麗なのか」

「そうです。矛盾しているようだけど、長く生きていると、そういうものがあると分かってきます」

マティアスはその言葉を、しばらく考えた。

怖くて、綺麗なもの。

思い当たるものがあった。

戦場だった。

戦場は、怖かった。でも、ある瞬間だけ、信じられないほど綺麗に見えることがあった。

砲弾が夜空を照らす瞬間。

川が赤く染まる夕暮れ。

そういうものが、確かにあった。

「そうかもしれない」とマティアスは言った。

「経験がありますか、怖くて綺麗なもの」

「ある」

「何ですか」

「戦場だ」

イレーネは少し間を置いた。

「軍人なんですね、やはり」

「そうだ」

「怖かったですか」

「そうだ」

「綺麗でしたか」

マティアスは少し考えた。

「……時々」

「正直ですね」とイレーネは言った。

今度は、声に出して笑った。

低くて、小さい笑い声だった。

海の音に溶け込む声だった。

マティアスは、その笑い声を聞いていた。

長い年月を重ねた者だけが持つ、深みのある笑い声だった。

それでも——聞いていられた。

ずっと聞いていられる気がした。

変わり続ける海の音のように。

「イレーネ」

「なんですか」

「嵐が来たら、教えてもらえるか」

イレーネは少し驚いた顔をした。

「なぜですか」

「嵐の日の海を、見てみたい」

「怖いですよ」

「そうだろう」

「危ない」

「分かっている」

「それでも見たいんですか」

「怖くて、綺麗なものを、一度見てみたい」

イレーネはしばらくマティアスを見た。

海と同じ色の目で、まっすぐに見た。

それから、また笑った。

声を出さない笑い方で。

「分かりました」と言った。「嵐が来たら、知らせます」

「ありがとう」

「また言いましたね、ありがとう」

「言える時は言う」

「知っています、もう」

風が強くなった。

灰色の海が、少し揺れた。

イレーネが空を見上げた。

「明後日、嵐が来るかもしれない」

「そうか」

「海がそう言っている」

マティアスも空を見た。

雲が、少し重かった。

「教えてくれてありがとう」

「三回目ですよ、今日」

「そうか」

「数えていたんですか」

「……いつの間にか、数えていた」

イレーネがまた笑った。

今度は少し長く笑った。

海の音と混じって、どこまでも続く笑い声だった。

マティアスはその笑い声を聞きながら、思った。

鎧は、今日も着ていた。

隙間は、いつも通りだった。

ただ——昨日と違う風が、また吹いていた。

昨日と同じ風だった。

気のせいではなかった。

気のせいではない、と今日は思った。

それが何を意味するのか、まだ分からなかった。

ただ、分からないまま、波の音を聞いていた。

波が来て、砕けた。

また来た。

また砕けた。

止まらなかった。


その夜、エルザへの手紙を書いた。


エルザ

港に、歌を歌う年配の女がいる。

海から歌が聞こえると言っている。名前のない歌だ。

私には聞こえないが、その女が歌うと、足が止まる。

明後日、嵐が来るかもしれない。

ルドルフの散歩は増やしたか。

マティアス


書き終えた。

封をした。

懐に入れた。

郵便船が来るのは五日後だった。

マティアスは窓を開けた。

夜の海が広がっていた。

月が出ていた。

光が揺れていた。

変わり続けていた。

鎧の隙間から、海の風が通り抜けていった。

冷たくて、塩の匂いがした。

名前を知らない花の香りとは、全然違った。

でも、悪くなかった。

波の音が、ずっと聞こえていた。


つづく

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