表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第四章 海と、嵐と、名前を持つ女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/50

第一話「海というものは、思ったより喧しかった」


海を見たのは、二度目だった。

一度目は十二の時で、父親に連れられて港町に行った。その時の海は、遠くから見るものだった。灰色で、広くて、どこまでも続いていて、マティアスは特に何も感じなかった。綺麗だとも、怖いとも思わなかった。ただ、広かった。

二度目は今だった。

リゼットが用意した地図には、見覚えのない港町の名前が、印として付けられていた。

ヴェルタ。

国境までの直行路は、検問強化により通行が困難で、迂回路として、この港町を経由する手配が整えられていた。そこから、船と陸路を乗り継いで、国境を越える。

船の手配には、時間がかかった。

ヴェルタに着いてから、次の船が出るまで、三ヶ月。

春が終わって、夏が来て、秋の入り口まで。

エルザへの手紙には、しばらく届くのが遅くなるかもしれないと書いた。エルザからの返事は、分かった、待つ、ルドルフが最近太ってきた、という三行だった。

マティアスはその手紙を引き出しに入れて、荷物をまとめた。


ヴェルタは、騒がしかった。

港町というものは、どこもこういうものなのかもしれなかった。朝から船の汽笛が鳴り、魚を売る声が響き、荷物を運ぶ男たちが怒鳴り合い、猫が三匹、魚の腸を巡って喧嘩していた。

マティアスは港の入り口に立って、しばらくその喧騒を眺めた。

騒がしかった。

牢屋とも、フワンの村とも、本部とも、全然違う種類の騒がしさだった。

「初めてですか、ヴェルタは」

声がした。

振り返った。

男だった。四十がらみで、日に焼けた顔をして、白い歯が目立った。沿岸警備隊の制服を着ていた。

「ランベルト・クロス警備隊長です。お迎えに上がりました」

「マティアスだ」

「ええ、存じております」クロスは笑った。「噂は聞いていますよ。穴に落ちた人だと」

マティアスは少し止まった。

「どこからその話が」

「軍の中では有名ですよ」クロスはまだ笑っていた。「敵国に潜入した男が穴に落ちて捕まったという話は、なかなか広まりやすい種類の話でして」

マティアスは少し間を置いた。

「案内してくれ」

「もちろんです。ただ、その前に一つだけ」

「なんだ」

「夕方、歓迎の宴席を用意しています。断れませんよ」

「断る」

「断れないと言いました」

マティアスはクロスを見た。

白い歯が光っていた。

「……善処する」

「十分です」クロスは歩き始めた。「こちらへどうぞ」

港の中を歩いた。

船が並んでいた。大きい船、小さい船、荷物を積んだ船、網を干している船。

海の匂いがした。

塩と、魚と、木の腐った匂いが混じった、複雑な匂いだった。

名前を知らない花の香りとは、全然違う匂いだった。

悪くはなかった。

ただ、違った。


宴席は、断れなかった。

警備隊の詰所の広間に、二十人ほどが集まっていた。全員、日に焼けた顔をしていた。全員、声が大きかった。

マティアスは端の席に座って、出されたものを食べた。

魚だった。旨かった。シチューとは別の種類の旨さだった。

隣にクロスが座った。

「どうですか、ヴェルタは」

「騒がしい」

「褒め言葉として受け取ります」

「そう受け取れる理由が分からない」

「活気がある、ということです」クロスは杯を傾けた。「静かな港は死んでいる港ですよ」

「そうかもしれない」

「三ヶ月、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

クロスは少し驚いた顔をした。

「よろしくと言ってもらえるとは思っていなかった」

「なぜだ」

「噂では、無愛想な方だと」

「無愛想と、礼儀がないは違う」

クロスは笑った。

「なるほど」

宴席は、夜遅くまで続いた。

マティアスは途中から、窓の外を見ていた。

海が見えた。

夜の海だった。

月が出ていて、その光が海の上で揺れていた。

揺れ続けていた。

止まらなかった。

不思議な光景だった。

ずっと見ていられる気がした。

エルザが言っていた言葉を思い出した。

雲の多い日の夕日が好きな理由。変わり続けるから、ずっと見ていられる、と言っていた。

海の光も、変わり続けていた。

月の光を受けながら、波の形に合わせて、ずっと揺れていた。

「気に入りましたか、海が」

クロスの声がした。

「……悪くない」

「三ヶ月あれば、もっと気に入りますよ」

「そうかもしれない」

マティアスは海を見続けた。

揺れる光を見続けた。

エルザに手紙を書こうと思った。

海の光が、変わり続けている、と書こうと思った。

お前の言っていた通りだ、と書こうと思った。


翌朝、波の音で目が覚めた。

宿の窓を開けると、海が広がっていた。

朝の海だった。

昨夜とは全然違う色だった。

昨夜は黒くて、月の光が揺れていた。

今朝は青くて、朝の光を受けて、きらきらしていた。

夜明け前の空と、少し似ていた。

まだ決まっていない色だった。

昨夜の黒でも、昼間の青でもない、今この瞬間だけの色だった。

マティアスはしばらく、その色を見ていた。

それから、便箋を取り出した。

書いた。


エルザ

海に来た。

朝の海は、夜明け前の空に似ている。まだ決まっていない色をしている。

変わり続けるものは、ずっと見ていられると、お前が言っていた。海もそうだ。

三ヶ月、ここにいる。手紙が遅くなるかもしれないが、書く。

ルドルフが太ったとのこと。散歩を増やせ。

マティアス


書き終えた。

封をした。

行商人の代わりに、郵便船があると昨日クロスが言っていた。月に二度、本土との間を往来するらしかった。

次の便は、三日後だった。

マティアスは手紙を懐に入れた。

窓の外では、海がまだ変わり続けていた。

朝の色が、少しずつ、昼の色になっていた。


船を待つ日々が始まった。

クロスの案内で、港の様子を見て回る。

内容は地味だった。

地図を確認して、クロスと話し合って、港を歩いて、出港の予定を確認する。それだけだった。

三日目、港の西側を歩いていた時のことだった。

波の音に混じって、別の音がした。

歌だった。

女の声だった。

低くて、海の音に溶け込むような声だった。

マティアスは足を止めた。

声のする方を見た。

防波堤の上だった。

一人の女が、防波堤の縁に腰かけて、海を見ながら歌っていた。

白髪の混じった髪を、後ろで束ねていた。

日に焼けた肌だった。深い皺が、目の周りに刻まれていた。

漁師の服を着ていたが、漁師には見えなかった。

何者にも見えなかった。

ただ、海を見ながら、歌っていた。

マティアスはしばらくその声を聞いていた。

何の歌か分からなかった。

言葉が聞き取れなかった。

でも、聞いていられた。

変わり続ける海の音と、混じり合って、止まらなかった。

やがて、歌が止んだ。

女が振り返った。

マティアスを見た。

目が合った。

女の目は、海と同じ色だった。

青くて、深くて、まだ決まっていない色だった。

「何か用ですか」と女は言った。

声は、歌っている時と同じ低さだった。

「いや」とマティアスは言った。

「じゃあ、なぜ見ていたんですか」

「歌が聞こえた」

「それで?」

「足が止まった」

女はしばらくマティアスを見た。

それから、少し笑った。

声を出さない笑い方だった。

口の端だけが、少し上がった。

「正直な人ですね」

「嘘をつく理由がない」

「そういう人、珍しい」

「そうかもしれない」

女は防波堤から下りた。

マティアスより、頭一つ分ほど背が低かった。

「イレーネ」と女は言った。

「なんだ」

「名前です。イレーネ・マルス」

「マティアスだ」

「知っています」

「なぜ」

「この港で知らない人間はいませんよ、穴に落ちた軍人のことは」

マティアスは少し間を置いた。

「その話はどこまで広まっているんだ」

イレーネはまた笑った。

声を出さない笑い方で。

「海の向こうまで」

「……そうか」

「嫌ですか、有名になるのは」

「好きではない」

「正直ですね、やっぱり」

イレーネは海を見た。

マティアスも、つられて海を見た。

昼の海だった。

青くて、光っていた。

「あの歌は、何という歌だ」

「名前のない歌です」

マティアスは少し驚いた。

「名前がないのか」

「ええ。私が歌っているだけで、誰かから教わったわけでも、どこかに書いてあるわけでもない」

「お前が作ったのか」

「作った、というより——聞こえてきたんです、海から。長くここで暮らしていると、そういうこともあるんですよ」

マティアスはイレーネを見た。

イレーネは海を見ていた。

「海から歌が聞こえるのか」

「あなたには聞こえませんか」

マティアスは海を見た。

波の音がした。

風の音がした。

船の軋む音がした。

歌は、聞こえなかった。

「聞こえない」

「そうですか」イレーネは少し笑った。「人によって違うみたい。若いうちは、なかなか聞こえないものです」

「あなたは、いつから聞こえているんだ」

「物心ついた頃から。もう何十年も」

マティアスはしばらくイレーネを見た。

イレーネは海を見ていた。

風が吹いた。

白髪の混じった髪が揺れた。

「変なことを言いましたか」とイレーネが言った。

「いや」

「でも、変な顔をしていた」

「変な顔はしていない」

「していましたよ」

「……そうかもしれない」

イレーネがまた笑った。

声を出さない笑い方で。

「正直ですね」

「さっきも言った」

「また言いたくなったんです」

マティアスは海を見た。

波が来て、防波堤に当たって、砕けた。

また波が来た。

また砕けた。

繰り返していた。

止まらなかった。

「また聞かせてもらえるか、その歌を」

言ってから、少し驚いた。

自分でも、予想していない言葉だった。

イレーネが振り返った。

海と同じ色の目が、マティアスを見た。

「いつですか」

「……また、ここを通る時に」

「通るかどうか分からないでしょう」

「通る」

「どうして分かるんですか」

マティアスは少し考えた。

「この港は西側から回る方が効率がいい。毎日通ることになる」

イレーネはしばらくマティアスを見た。

それから、また笑った。

今度は、少し声が出た。

小さく、低い笑い声だった。

海の音に溶け込むような声だった。

「分かりました。また歌います」

「ありがとう」

イレーネは少し驚いた顔をした。

「……ありがとう、と言える人なんですね」

「言える時は言う」

「そうですか」

風が吹いた。

波が砕けた。

イレーネは踵を返した。

歩き始めた。

漁師の服が、風に揺れた。

マティアスはその後ろ姿を見た。

長く海と生きてきた者の、迷いのない歩き方だった。

鎧は、今日も着ていた。

隙間は、いつも通りだった。

ただ——何か、いつもと違う風が、一瞬だけ、吹いた気がした。

気のせいかもしれなかった。

気のせいだと思うことにした。

波が、また防波堤に当たって、砕けた。


つづく


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ