第六話「帰ってください、と」
その三日後、リゼットが来た。
書類を一枚、持っていた。
今までより、薄い書類だった。
「マティアス様」
「決まったか」
「はい」とリゼットは言った。「釈放、および送還の手続きが、完了しました」
マティアスは少し間を置いた。
「いつ出られる」
「明日の朝です」
「……早いな」
「これ以上、引き延ばす理由が、私にはありませんので」
リゼットは、書類をマティアスに渡した。
マティアスは受け取って、目を通した。
署名があった。リゼット・ハウゼンの名前だった。
「お前の署名か」
「私の責任で、進めました」
「上の判断は」
「最終的な承認は、上層部です。ただ、進言したのは、私です」
マティアスは書類を見たまま、しばらく黙った。
「なぜ、ここまでする」
リゼットは、窓の外を見た。
中庭の薔薇が、朝の光の中で、揺れていた。
「マティアス様。私は、最初、あなたを引き止めるつもりでした」
「分かっている」
「でも、引き止められる人と、引き止められない人がいる、ということを、知りました」
「……そうか」
「あなたは、引き止められない人でした。それは、悪いことではありません。ただ、私が、引き止める側ではなかった、というだけのことです」
リゼットは、マティアスを見た。
「それから、もう一つ」
「なんだ」
「あなたが、白い花の話をした時——あなたの目が、少し、変わりました」
マティアスは何も言わなかった。
「シチューの話をした時も。馬の話をした時も。フワンという弟さんの、犬の話をした時も」
「……そうか」
「その目を、ここに留めておくことは、できません。誰にも、できないと思います」
リゼットは、少し笑った。
「だから、帰ってください」
マティアスは、リゼットを見た。
「リゼット」
「なんでしょう」
「世話になった」
リゼットが、少し止まった。
それから、わずかに目を見開いた。
「……驚きました」
「何が」
「あなたが、礫を投げない方だとは、思っていましたが」
「それで」
「お礼を言える方だとは、思っていませんでした」
マティアスは少し考えた。
「以前は、言えなかった」
「以前、とは」
「三年ほど前まではな」
リゼットは、しばらくマティアスを見た。
「変わられたのですね」
「変わったかもしれない」
「誰のおかげですか」
マティアスは答えなかった。
リゼットは、答えを待たなかった。
答えは、もう、分かっているようだった。
「マティアス様」
「なんだ」
「一つ、お伝えしておくことがあります」
「なんだ」
「送還のルートについてですが」
リゼットは、書類の二枚目を出した。
地図だった。
「国境までの直行路は、現在、別件の検問強化により、通行が困難です」
「……それで」
「迂回路として、港町ヴェルタを経由する手配を、整えました」
「ヴェルタ」
「沿岸の港町です。そこから、船と陸路を乗り継いで、国境を越える形になります」
マティアスは地図を見た。
見たことのない地名だった。
「時間がかかるな」
「多少は。ただ、安全な経路です」
「分かった」
リゼットは地図を畳んだ。
「ヴェルタには、知人がおります。沿岸警備隊の隊長です。彼に、連絡を入れておきます」
「世話になる」
「いえ」とリゼットは言った。「これで、最後の世話です」
リゼットは、扉へ向かった。
扉の前で、止まった。
「マティアス様」
「なんだ」
「白い花の村に、戻られたら」
「なんだ」
「その花の名前を、調べないでください」
マティアスは少し間を置いた。
「言われなくても、調べる気はない」
「ええ。分かっています」
リゼットは、振り返った。
「達者で」
「お前もな」
リゼットは、出て行った。
扉が閉まった。
マティアスは、窓の外を見た。
中庭の薔薇が、朝の光を受けて、静かに揺れていた。
赤い薔薇だった。
美しい花だった。
ただ、名前を知らない白い花の方が、好きだった。
理由は、変わらなかった。
翌朝、マティアスは部屋を出た。
見送りは、いなかった。
ただ、中庭を通る時、薔薇の前に、リゼットが立っていた。
軍服姿だった。
いつもと同じ、整った立ち姿だった。
マティアスは、足を止めなかった。
ただ、通り過ぎる時、わずかに、右手を上げた。
リゼットは、何も言わなかった。
ただ、小さく、頭を下げた。
噴水の水音が、後ろに遠ざかった。
門を出た。
馬が用意されていた。
地図には、見覚えのない港町の名前が、印として付けられていた。
ヴェルタ。
マティアスは馬に乗った。
空を見た。
雲が多かった。
雲の多い日の夕日が、いつか見られるだろうか、とマティアスは思った。
その夕日を、誰と見るかは、決まっていた。
ただ、その前に、もう一つの道があった。
港の匂いを、マティアスはまだ知らなかった。
馬を進めた。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——薔薇のあった場所を通り過ぎた時、隙間から、わずかに、何かが通り抜けていった。
それが何だったのか、マティアスは、考えなかった。
考えなくても、分かっていたからだ。
それだけだった。
それだけで十分だった。
第三章 完




