第七話「出港の朝と、最後の歌」
出港の日が来た。
郵便船の代わりの船が、修理を終えて、初めての航海に出る日だった。
マティアスも、その船に乗る。
朝早く、港へ向かった。
クロスが、見送りに来ていた。
「三ヶ月、世話になりました」とクロスは言った。
「こちらこそ」
「最初に会った時より、少し、表情が柔らかくなりましたね」
「そうか」
「噂とは違う方でしたよ」とクロスは言った。「無愛想だが、礼儀のある方だった」
「無愛想と、礼儀がないは違うと言った」
「覚えていますよ」クロスは笑った。「最初の日に、言われました」
「そうだったか」
「達者で」
「お前もな」
港の入り口へ向かった。
西側の防波堤の方角を見た。
イレーネがいた。
防波堤の縁に座っていた。
歌っていた。
名前のない歌だった。
マティアスは、防波堤に向かって歩いた。
歌が、近づくにつれて、はっきりと聞こえた。
低くて、海の音に溶け込む声だった。
何の歌か、分からなかった。
言葉が、聞き取れなかった。
でも、聞いていられた。
やがて、歌が止んだ。
イレーネが、振り返った。
「来ましたね」
「船が出る」
「知っています」
「見送りに来たのか」
「いいえ」とイレーネは言った。「いつもの場所にいただけです」
マティアスは、少し笑った。
「そうか」
「今日は、どんな歌だったか分かりますか」
「分からない」
「晴れた日の歌です。明るくて、短い歌」
マティアスは、空を見た。
晴れていた。
雲が、ほとんどなかった。
「今日にしては、長かったな」
「特別に、長くしました」
「なぜだ」
イレーネは、少し笑った。
声を出さない笑い方だった。
「あなたが、今日、ここを通ると思ったので」
マティアスは、何も言わなかった。
風が吹いた。
白髪の混じった髪が、揺れた。
「イレーネ」
「なんですか」
「世話になった」
イレーネは、少し驚いた顔をした。
「世話、というほどのことは、していませんが」
「した」とマティアスは言った。「歌を聞かせてもらった。話を聞いてもらった。それから——」
マティアスは、少し間を置いた。
「節度を、教えてもらった」
イレーネは、しばらくマティアスを見た。
それから、笑った。
「節度、ですか」
「お前と話していると、いつもより、言葉を選ぶようになった」
「それは——」イレーネは、少し考えるような顔をした。「年上に対する、礼儀のようなものですか」
「そうだ」
「……いいことですね」
イレーネは、海を見た。
青い海が、朝の光を受けて、輝いていた。
「マティアス」
「なんだ」
「初めて、名前で呼びました」
マティアスは、少し驚いた。
「そうだな」
「いつも、あなた、と呼んでいました」
「気づかなかった」
「気づかなくていいんです」
イレーネは、立ち上がった。
マティアスより、頭一つ分ほど、背が低かった。
「マティアス」ともう一度、イレーネは言った。「村に着いたら、白い花を、よく見てください」
「見る」
「名前を知らないままで、見てください」
「そうする」
「それから——」
イレーネは、少し言葉を切った。
「その人に、こう伝えてください」
「なんだ」
「港に、歌う人がいた。その人は、あなたのことを、もう知っているような気がした、と」
マティアスは、少し間を置いた。
「もう知っている、とは」
「会ったこともないのに」とイレーネは言った。「あなたの話を聞いているうちに、その人のことが、なんとなく、分かる気がしました。明るくて、うるさくて、よく笑う」
「そうだな」
「会いたかったですね、その人に」
「そうかもしれない」
「会えなくても」イレーネは言った。「歌を一つ、届けます」
「歌を」
「ええ」
イレーネは、少し笑って、また腰を下ろした。
海に向き直った。
「行ってください。船が出ます」
「ああ」
マティアスは、少し間を置いた。
「達者でな」
「ええ」とイレーネは言った。「あなたも」
マティアスは、踵を返した。
歩き始めた。
後ろから、歌が聞こえてきた。
さっきとは、また違う歌だった。
明るくて、短い、晴れた日の歌だった。
マティアスは、足を止めなかった。
ただ、その歌を、最後まで聞いていた。
船に乗った。
甲板に立った。
ヴェルタの港が、少しずつ遠ざかっていった。
西側の防波堤が、小さくなっていった。
人影が一つ、そこに見えた。
マティアスは、右手を、少しだけ上げた。
人影は、こちらを見ているようだった。
動かなかった。
ただ、見ていた。
船が、港を出た。
海が、広がった。
青くて、光っていた。
変わり続けていた。
マティアスは、その海を見ながら、思った。
怖くて、綺麗なもの。
今は、その言葉の意味が、少し分かる気がした。
嵐の夜は、怖いだけだった。
だが、今、この海は——
怖さのない、ただの綺麗さだった。
それも、悪くなかった。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——隙間から、海の風が、まだ通り抜けていた。
名前を知らない花の、香りが届くまで。
あと、何日かかるだろうか。
マティアスは、少し考えた。
それから、考えるのをやめた。
着いたら、分かる。
それで、十分だった。
その夜、船の上で、エルザへの手紙を書いた。
エルザ
ヴェルタを出た。
あの、歌う年配の女に、世話になった。
最後に、こう言っていた。
歌を一つ、届ける、と。
どうやって届けるのか、聞かなかった。
だが、嘘をつく人間ではなかった。
もし、いつか、どこかで、聞いたことのない歌が聞こえたら——
それかもしれない。
ルドルフの散歩は増やしたか。
マティアス
書き終えた。
封をした。
甲板から、海を見た。
月が出ていた。
光が、揺れていた。
変わり続けていた。
波の音が、ずっと聞こえていた。
第四章 完




