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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第四章 海と、嵐と、名前を持つ女

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第七話「出港の朝と、最後の歌」


出港の日が来た。

郵便船の代わりの船が、修理を終えて、初めての航海に出る日だった。

マティアスも、その船に乗る。

朝早く、港へ向かった。

クロスが、見送りに来ていた。

「三ヶ月、世話になりました」とクロスは言った。

「こちらこそ」

「最初に会った時より、少し、表情が柔らかくなりましたね」

「そうか」

「噂とは違う方でしたよ」とクロスは言った。「無愛想だが、礼儀のある方だった」

「無愛想と、礼儀がないは違うと言った」

「覚えていますよ」クロスは笑った。「最初の日に、言われました」

「そうだったか」

「達者で」

「お前もな」


港の入り口へ向かった。

西側の防波堤の方角を見た。

イレーネがいた。

防波堤の縁に座っていた。

歌っていた。

名前のない歌だった。

マティアスは、防波堤に向かって歩いた。

歌が、近づくにつれて、はっきりと聞こえた。

低くて、海の音に溶け込む声だった。

何の歌か、分からなかった。

言葉が、聞き取れなかった。

でも、聞いていられた。

やがて、歌が止んだ。

イレーネが、振り返った。

「来ましたね」

「船が出る」

「知っています」

「見送りに来たのか」

「いいえ」とイレーネは言った。「いつもの場所にいただけです」

マティアスは、少し笑った。

「そうか」

「今日は、どんな歌だったか分かりますか」

「分からない」

「晴れた日の歌です。明るくて、短い歌」

マティアスは、空を見た。

晴れていた。

雲が、ほとんどなかった。

「今日にしては、長かったな」

「特別に、長くしました」

「なぜだ」

イレーネは、少し笑った。

声を出さない笑い方だった。

「あなたが、今日、ここを通ると思ったので」

マティアスは、何も言わなかった。

風が吹いた。

白髪の混じった髪が、揺れた。

「イレーネ」

「なんですか」

「世話になった」

イレーネは、少し驚いた顔をした。

「世話、というほどのことは、していませんが」

「した」とマティアスは言った。「歌を聞かせてもらった。話を聞いてもらった。それから——」

マティアスは、少し間を置いた。

「節度を、教えてもらった」

イレーネは、しばらくマティアスを見た。

それから、笑った。

「節度、ですか」

「お前と話していると、いつもより、言葉を選ぶようになった」

「それは——」イレーネは、少し考えるような顔をした。「年上に対する、礼儀のようなものですか」

「そうだ」

「……いいことですね」

イレーネは、海を見た。

青い海が、朝の光を受けて、輝いていた。

「マティアス」

「なんだ」

「初めて、名前で呼びました」

マティアスは、少し驚いた。

「そうだな」

「いつも、あなた、と呼んでいました」

「気づかなかった」

「気づかなくていいんです」

イレーネは、立ち上がった。

マティアスより、頭一つ分ほど、背が低かった。

「マティアス」ともう一度、イレーネは言った。「村に着いたら、白い花を、よく見てください」

「見る」

「名前を知らないままで、見てください」

「そうする」

「それから——」

イレーネは、少し言葉を切った。

「その人に、こう伝えてください」

「なんだ」

「港に、歌う人がいた。その人は、あなたのことを、もう知っているような気がした、と」

マティアスは、少し間を置いた。

「もう知っている、とは」

「会ったこともないのに」とイレーネは言った。「あなたの話を聞いているうちに、その人のことが、なんとなく、分かる気がしました。明るくて、うるさくて、よく笑う」

「そうだな」

「会いたかったですね、その人に」

「そうかもしれない」

「会えなくても」イレーネは言った。「歌を一つ、届けます」

「歌を」

「ええ」

イレーネは、少し笑って、また腰を下ろした。

海に向き直った。

「行ってください。船が出ます」

「ああ」

マティアスは、少し間を置いた。

「達者でな」

「ええ」とイレーネは言った。「あなたも」

マティアスは、踵を返した。

歩き始めた。

後ろから、歌が聞こえてきた。

さっきとは、また違う歌だった。

明るくて、短い、晴れた日の歌だった。

マティアスは、足を止めなかった。

ただ、その歌を、最後まで聞いていた。


船に乗った。

甲板に立った。

ヴェルタの港が、少しずつ遠ざかっていった。

西側の防波堤が、小さくなっていった。

人影が一つ、そこに見えた。

マティアスは、右手を、少しだけ上げた。

人影は、こちらを見ているようだった。

動かなかった。

ただ、見ていた。

船が、港を出た。

海が、広がった。

青くて、光っていた。

変わり続けていた。

マティアスは、その海を見ながら、思った。

怖くて、綺麗なもの。

今は、その言葉の意味が、少し分かる気がした。

嵐の夜は、怖いだけだった。

だが、今、この海は——

怖さのない、ただの綺麗さだった。

それも、悪くなかった。

鎧は、今日も着ていた。

ただ——隙間から、海の風が、まだ通り抜けていた。

名前を知らない花の、香りが届くまで。

あと、何日かかるだろうか。

マティアスは、少し考えた。

それから、考えるのをやめた。

着いたら、分かる。

それで、十分だった。


その夜、船の上で、エルザへの手紙を書いた。


エルザ

ヴェルタを出た。

あの、歌う年配の女に、世話になった。

最後に、こう言っていた。

歌を一つ、届ける、と。

どうやって届けるのか、聞かなかった。

だが、嘘をつく人間ではなかった。

もし、いつか、どこかで、聞いたことのない歌が聞こえたら——

それかもしれない。

ルドルフの散歩は増やしたか。

マティアス


書き終えた。

封をした。

甲板から、海を見た。

月が出ていた。

光が、揺れていた。

変わり続けていた。

波の音が、ずっと聞こえていた。


第四章 完

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