第四話「薔薇と、名前を知らない花」
数日後、リゼットが、花を持ってきた。
赤い薔薇だった。
一本だけ、ガラスの花瓶に入っていた。
「中庭に咲いていたものです」とリゼットは、それを窓辺に置いた。「殺風景な部屋だと思いまして」
マティアスは薔薇を見た。
「綺麗だな」
リゼットが、わずかに表情を動かした。
「珍しいですね、そういう感想を言われるのは」
「事実を言っている」
「ええ。存じています」
リゼットは花瓶の位置を少し直した。光の当たり方を調整しているようだった。
薔薇は、確かに美しかった。深い赤で、花弁が一枚一枚、丁寧に重なっていた。
「マティアス様」
「なんだ」
「以前、お戻りになりたい場所がある、とおっしゃいましたね」
「言った」
「その場所には、何があるのですか」
マティアスは少し間を置いた。
今までは、答えなかった質問だった。
だが、今日は、答えた。
「白い花が咲く村だ」
リゼットが、薔薇から視線を上げた。
「白い花、ですか」
「名前を知らない花だ。毎年、春に咲く」
「名前を、知らない?」
「そうだ」
リゼットは少し考えるような顔をした。
「調べれば分かるのでは」
「調べていない」
「なぜですか」
マティアスは少し間を置いた。
「名前がなくても、毎年咲く」
リゼットは、しばらく黙った。
それから、薔薇を見た。
「この薔薇には、名前があります」とリゼットは言った。「品種名も、由来も。手入れをしないと、すぐに枯れます」
「そうか」
「あなたの村の花は、手入れをしなくても咲くのですか」
「そうだ」
「……羨ましいですね」とリゼットは、小さく言った。
それから、すぐに、表情を戻した。
「失礼しました。話が逸れました。村には、その花以外に、何がありますか」
マティアスは少し考えた。
答えるかどうか、迷う必要は、もう感じなかった。
「弟がいる。フワンという」
「弟、ですか」
「血の繋がった弟ではない。エルザの弟だ」
「エルザ」
リゼットが、その名前を、小さく繰り返した。
「待っている人物、ですか」
「そうだ」
「どのような方ですか」
マティアスは窓の外を見た。
噴水の水が、午後の光の中で揺れていた。
「明るい。うるさい。よく笑う」
リゼットは、何も言わなかった。
「フワンの犬の話を、よくする。一度始まると、三十分は終わらない」
「三十分」
「そうだ」
「……それは、長いですね」
「長い」とマティアスは言った。「だが、聞く」
リゼットは、しばらくマティアスを見た。
それから、薔薇に視線を戻した。
「シチューを作る方、ですか」
マティアスは、少し驚いた。
「誰から聞いた」
「先日、あなたが書いていた手紙の宛先が、エルザという名前だったことは、報告で知っています」とリゼットは言った。「内容までは、読んでおりません。ただ、想像しただけです」
「想像か」
「ええ。シチューの味を、何かと比較されている方が、その何かについて語る時、シチューの話をすると思いましたので」
マティアスは答えなかった。
リゼットは薔薇の花弁に、指先で軽く触れた。
「この薔薇は、美しいでしょう」
「美しい」
「でも」
リゼットは少し笑った。
自分から、その先を言った。
「名前を知らない白い花の方が、好きなのでしょう」
マティアスは少し間を置いた。
「そうだ」
リゼットの笑みが、わずかに止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに、表情を戻した。
「理由を伺っても」
「名前がなくても、毎年咲くからだ」
リゼットは、薔薇を見た。
赤い花弁が、午後の光を受けて、艶やかに光っていた。
「……この薔薇は」とリゼットは言った。「手入れをする人がいなくなれば、枯れます」
「そうだろうな」
「咲き続けるには、誰かが必要です」
「そうだ」
「名前を知らない花は、誰もいなくても、咲くのですね」
「そうだ」
リゼットは、しばらく薔薇を見ていた。
それから、花瓶を持ち上げた。
「下げますね。殺風景な部屋の方が、お好みかもしれません」
「好みの話ではない」
「分かっています」とリゼットは言った。
笑った顔のままだったが、その笑い方は、最初に部屋に入ってきた時の、整った笑い方とは、少し違っていた。
リゼットは花瓶を持って、扉へ向かった。
扉の前で、足を止めた。
「マティアス様」
「なんだ」
「神父様の話を、していませんでしたね」
「七人目か」
「いえ」とリゼットは言った。「今日は、しません」
「そうか」
「今日は——」
リゼットは少し言葉を切った。
「今日は、よろしいです」
それだけ言って、出て行った。
扉が閉まった。
マティアスは、窓辺を見た。
薔薇のあった場所に、何もなかった。
少しの間、その場所を見ていた。
それから、引き出しを開けた。
便箋を取り出した。
エルザに、村の花のことを、また書こうと思った。
つづく




