第十話「翌朝と、カイルの独り言と、帰り道の二人」
翌朝、目が覚めた時、天井が木だった。
節目のある、古い木の天井だった。
五度目に見る天井だった。
もう完全に、見慣れていた。
マティアスはしばらく天井を見ていた。
昨夜のことを、順番に思い出した。
エルザが先に言った。
自分が後から言えた。
カイルが戻ってきて、三回鳴いた。
それだけのことだった。
それだけのことが、今朝の天井を、昨日より少し違うものに見せていた。
気のせいかもしれなかった。
今日は、気のせいだと思わないことにした。
台所に行くと、またカイルがいた。
今朝は鍋の前には立っていなかった。
窓際に椅子を運んで、外を見ていた。
春の朝が来ていた。
白い花が、朝の光の中で揺れていた。
カイルはマティアスが入ってきた気配に気づいていたが、振り返らなかった。
マティアスも何も言わなかった。
鍋に水を入れた。火にかけた。
棚から茶葉を出した。
「昨夜は眠れたか」とマティアスは言った。
「よく眠れた」とカイルは言った。
「そうか」
「お前は」
「よく眠れた」
カイルは少し間を置いた。
「そうか」
それだけだった。
鍋が温まるまで、二人は黙っていた。
春の朝の音がした。
鳥が鳴いていた。
どこかで犬が動く音がした。
ルドルフかもしれなかった。
「マティアス」
「なんだ」
「昨夜、言えたか」
マティアスは少し間を置いた。
「言えた」
カイルは窓の外を見たままだった。
「そうか」
「エルザが先に言ってくれた」
「そうか」
「お前が今朝の話をしてくれたおかげかもしれない」
カイルはしばらく黙った。
それから、ごく小さく、息を吐いた。
「そうか」
「ありがとう」
カイルが少し止まった。
振り返った。
マティアスを見た。
マティアスは鍋の前に立ったまま、前を向いていた。
カイルはしばらくマティアスを見た。
それから、また窓の外に視線を戻した。
「どういたしまして」と、静かに言った。
それだけだった。
芝居がかったため息もなかった。
「オッホン」もなかった。
ただ、どういたしまして、と言った。
それが、十五年来のカイル・フォン・シュトラールの、本当の声だった。
お湯が沸いた。
マティアスはお茶を淹れた。
二人分。
カイルに渡した。
カイルは受け取った。
一口飲んだ。
「旨い」
「そうか」
「昨日より旨い」
「材料は同じだ」
「作る理由が変わると旨くなる、と昨日言った」
「お前が言った」
「お前が体現した」
マティアスは少し間を置いた。
「……そうかもしれない」
カイルは窓の外を見た。
白い花が揺れていた。
「名前を知らない花だな」
「そうだ」
「毎年咲く」
「そうだ」
「来年も咲くだろう」
「おそらく」
カイルはお茶を一口飲んだ。
「お前が来年も来る理由が、また一つ増えたな」
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが——否定しなかった。
それが答えだった。
朝食は四人で食べた。
フワンが起きてきて、昨日の残りのシチューを温めた。
「マティアスさん、今日は何日いますか」
「あと三日だ」
「三日か」フワンは少し考えた。「短いですね」
「そうだな」
「前より短く感じます」
「なぜだ」
「前は三日あれば長いと思ってたけど、今は三日じゃ足りない気がするから」
マティアスは少し間を置いた。
「そうかもしれない」
フワンがにやにやした。
カイルが「オッホン」と言った。
エルザが笑った。
マティアスはシチューを食べた。
旨かった。
その日の午後、カイルが出発すると言った。
「今日か」とマティアスは言った。
「そうだ。お前たちの残り三日の邪魔はしない」
「邪魔ではない」
「するつもりはないが、しない方がいいだろう」
マティアスは返事をしなかった。
カイルは荷物をまとめた。
エルザが見送りに来た。フワンも来た。犬が何匹かついてきた。
カイルは馬に乗った。
「エルザ」
「なんですか」
「マティアスのことを、よろしく頼む」
「また言うんですね、それ」
「毎回言う」とカイルは言った。「毎回頼む」
エルザは笑った。
「分かりました。毎回引き受けます」
「フワン」
「はい」
「畑は来年、五つ以上実らせろ」
「目標にします」
「目標ではなく、実らせろ」
「……実らせます」
カイルは満足そうな顔をした。
それからマティアスを見た。
「マティアス」
「なんだ」
「言えなかった言葉が、まだあるだろう」
「そうだ」
「焦るな」
「焦っていない」
「ただ」
「なんだ」
カイルは少し間を置いた。
「遠回りしすぎるな」
マティアスは少し考えた。
「善処する」
「お前が善処すると言う時は——」
「今回はする」
カイルは口の端を上げた。
「そうか」
「ああ」
「では」とカイルは言った。「オッホン」
馬が歩き始めた。
「カイルさん」とエルザが言った。
カイルが振り返った。
「また来てください」
カイルはしばらくエルザを見た。
それから、少し笑った。
声を出さない笑い方だった。
「来る」と言った。
馬が進んだ。
足音が遠ざかった。
小川沿いの道を、南へ向かった。
しばらく行ったところで、カイルが一度だけ振り返った。
右手が、ほんの少しだけ、持ち上がった。
マティアスのやり方と、同じだった。
エルザが笑った。
フワンがにやにやした。
マティアスはそれを見ていた。
少し間を置いて、言った。
「あいつは昔からそうだ」
「何が」
「見ていないようで、全部見ている」
エルザは少し笑った。
「そうね」
「それから」
「なんだ」
「真似をする」
「カイルさんが?」
「私がよくやることを、さりげなく真似する。気づかないふりをして」
エルザはしばらく考えた。
「右手のこと?」
「そうだ」
「マティアスのやり方と同じだったわね」
「昔からそうだ。士官学校の時から」
エルザはその遠ざかる背中を見た。
もう小さくなっていた。
「なんか」とエルザは言った。
「なんだ」
「カイルさんって、孤独な人なのかな」
マティアスは少し間を置いた。
「そうかもしれない」
「でも、こうして来てくれるのね」
「そうだ」
「友達が少ないのかな」
「多くはないだろう」
「マティアスとは友達なの?」
マティアスはしばらく考えた。
「親友、という言葉が正確かどうか分からない。ただ、十五年間、ずっとそこにいる」
エルザは少し笑った。
「フワンにそれと同じことを言ったって、フワンが教えてくれた」
「そうだったな」
「変わらないのね、あなたって」
「そうかもしれない」
「それでいいわよ」とエルザは言った。
それから、マティアスの腕に、そっと手を添えた。
歩き始めた。
村の方へ向かって。
マティアスはその手を感じながら、歩いた。
フワンが後ろからついてきた。
犬が何匹かついてきた。
春の午後が、村全体を照らしていた。
残り三日は、静かだった。
特別なことは、何もなかった。
畑を見た。小川を歩いた。シチューを食べた。夕日を見た。
二日目の夜、エルザが言った。
「また来る、って言ってくれるわね」
「ああ」
「冬も?」
「そうだ」
「春も?」
「そうだ」
「夏は?」
マティアスは少し考えた。
「カイルが年に三度と言っていた」
「カイルさんの案を採用するの?」
「検討中だ」
エルザが笑った。
「検討、じゃなくて来てよ」
「善処する」
「善処するって言う時は——」
「今回はする」
エルザはしばらくマティアスを見た。
それから、笑った。
「約束ね」
「約束だ」
三日目の朝が来た。
最後の朝だった。
荷物はまとめてあった。
朝食を食べた。
四人分の食卓だったが、カイルがいない分、少し静かだった。
「静かですね」とフワンが言った。
「そうだな」
「カイルさんがいると賑やかですね、あの人」
「そうだな」
「オッホンって言うだけなのに、なんで賑やかになるんだろう」
「そういう人間だ」
フワンはしばらく考えた。
「マティアスさんは静かなのに、いると温かい感じがします」
マティアスは少し止まった。
「……そうか」
「そうですよ。カイルさんは賑やかで、マティアスさんは温かい。どっちもいると、ちょうどいい」
エルザが笑った。
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが——シチューをもう一口食べた。
旨かった。
出発の時、フワンが見送りに来た。
犬が全員来た。
ルドルフが足に頭を押しつけた。
マティアスは撫でた。
「またな」
ルドルフは尻尾を振った。
フワンが言った。
「マティアスさん」
「なんだ」
「夏、来てくれますよね」
「……善処する」
「来るってことですね」
「そういうことになるかもしれない」
フワンがにやにやした。
マティアスは馬に乗った。
エルザが見上げていた。
春の光の中で、栗色の髪が揺れていた。
「マティアス」
七度目だった。
呼ばれるたびに、隙間から何かが入ってきた。
今日は、入ってくるものではなく、満ちているものがあった。
昨夜言えた言葉が、まだそこにあった。
「ああ」
「またね」
「ああ」
「夏、来るのね」
「……ああ」
エルザが笑った。
今度は泣いていなかった。
ただ、笑っていた。
それが去年と違うところだった。
去年は泣きながら笑っていた。
今年は、ただ笑っていた。
マティアスはその笑い方を、少しの間、見ていた。
それから馬を向けた。
歩き始めた。
小川沿いの道を、南へ向かった。
しばらく行ったところで、振り返った。
振り返った。
今年は、振り返った。
エルザが手を振っていた。
フワンが犬と走り回っていた。
村が、春の光の中にあった。
白い花が、風に揺れていた。
マティアスは右手を上げた。
去年より、少し高く上げた。
それだけだったが。
それが今年の答えだった。
馬を進めた。
帰り道に入った。
春の風が来た。
白い花の香りが、どこかから漂ってきた。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——今年の帰り道は、昨年の帰り道と、少し違った。
振り返れた。
手が、もう少し高く上がった。
言えなかった言葉が、一つ言えた。
引き出しには、まだ言葉があった。
でも焦らなくていい。
夏に言えばいい。
夏に来ると、言ってしまったから。
善処する、と言ったが、今回はする。
それは確かなことだった。
春の道を、一人で行った。
でも、今年だけは、一人という感じがしなかった。
後ろに、何かが続いている気がした。
名前を知らない花の香りが、ずっとついてきた。
村からここまで、ずっとついてきた。
悪くなかった。
つづく




