第九話「言えなかった言葉と、言えた夜」
その日の午後は、何もなかった。
特別なことは、何もなかった。
フワンが畑の準備をした。カイルがそれを手伝った。マティアスとエルザは小川沿いを歩いた。犬が何匹かついてきた。ルドルフとミミと、名前を知らない茶色い犬が一匹。
歩きながら、エルザが言った。
「カイルさんって、昔からああいう人なの?」
「ああいう人とは」
「なんか、全部分かってるみたいな顔をしてる人」
マティアスは少し考えた。
「昔からそうだ」
「嫌じゃなかったの」
「嫌だった」
エルザが笑った。
「正直ね」
「嘘をつく必要がない」
「今は?」
「今は——嫌ではない」
「なんで」
「分かっていることを、押しつけてこない。ただ、分かっている」
エルザはしばらく歩きながら考えていた。
「羅針盤の話、今朝カイルさんから聞いたわ」
「何を聞いた」
「マティアスが言葉にした後の世界が怖いって話」
マティアスは少し止まった。
「……全部話したのか、あの男は」
「全部じゃないと思う。でも、少し」
「余計なことを」
「余計じゃないわよ」とエルザは言った。「私には話してくれないこと、カイルさんが教えてくれることがある。それは余計じゃない」
マティアスは返事をしなかった。
小川の水が、春の光を受けて流れていた。
「ねえ、マティアス」
「なんだ」
「言葉にした後の世界が怖いって——どの言葉のこと?」
マティアスは少し間を置いた。
「一つだけ、まだ言えていないものがある」
「どんな言葉」
「……今はまだ言えない」
エルザは少し黙った。
歩きながら、小川を見ていた。
「いつか言える?」
「言えると思っている」
「今日じゃないの?」
「今日かもしれない。今日じゃないかもしれない」
「どっちなの」
「分からない」
エルザはしばらく黙った。
それから、マティアスの手を取った。
歩きながら、取った。
「急がなくていいわよ」
「そうか」
「でも」
「なんだ」
「言える時に言って。私は逃げないから」
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが、握り返した。
ルドルフが、二人の前を走り回った。
ミミが小川の端を歩いた。
名前を知らない茶色い犬が、花の匂いを嗅いでいた。
春の午後が、静かに続いていた。
夕方、丘の上で四人で夕日を見た。
雲が多かった。
複雑な色の夕日だった。
橙色が赤に変わって、赤が紫に変わって、紫が青に混じった。
エルザが言った。
「きれいでしょ、カイルさん」
「そうだな」とカイルは言った。
「好きになりましたか、雲の多い夕日」
カイルは少し考えた。
「……なったかもしれない」
「マティアスも、最初は単純な夕日の方を見てたの」
「そうか」とカイルは言った。それからマティアスを見た。「今は?」
「今はこちらの方が好きだ」
「いつから」
「エルザが教えてくれてから」
カイルが「オッホン」と言った。
フワンがにやにやした。
エルザは夕日を見たまま、耳だけが少し赤くなった。
マティアスは夕日を見ていた。
複雑な色が、また変わっていった。
夜になった。
フワンが早めに寝た。
カイルが「少し外の空気を吸ってくる」と言って出ていった。
台所に、マティアスとエルザが残った。
エルザがお茶を淹れた。
二人でテーブルに座った。
しばらく、黙っていた。
窓の外で、春の夜風が吹いていた。
白い花の香りが、薄く漂っていた。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「今日の午後、言えない言葉があるって言ってたわね」
「そうだ」
「今は」
「今も、まだ言えるかどうか分からない」
エルザはお茶を一口飲んだ。
「無理に言わなくていいわよ」
「分かっている」
「でも」
「なんだ」
エルザはカップを置いた。
マティアスを見た。
まっすぐに、見た。
「私から言ってもいい?」
マティアスは少し止まった。
「何をだ」
「私が言いたいことを」
「……言ってくれ」
エルザは少し間を置いた。
春の夜風が、また吹いた。
「一緒にいたい」とエルザは言った。
静かな声だった。
大きくもなく、小さくもなく、ただそこにある声だった。
「年に何度も来てくれて、冬に雪道を三日半かけてきてくれて、引き出しに手紙をしまってくれて——それで十分なの。でも、もっとそばにいてほしい。それが正直なところ」
マティアスは何も言わなかった。
エルザは続けた。
「言えなかったのは、私も同じだった。言ったら何かが変わる気がして。でも——」
「でも?」
「カイルさんが今朝言ってたの。変わった後の世界が良いかどうか確信が持てないのは当然だって」
「聞いていたのか」
「聞いてたわよ、少し」
マティアスは少し間を置いた。
「どこから」
「窓の外から」
「……どのくらい」
「ほとんど全部」
マティアスはエルザを見た。
エルザは澄ました顔をしていた。
耳だけが、少し赤かった。
「……それは」
「ごめんなさい」
「謝るくらいなら聞くな」
「だって気になったんだもの」
マティアスはしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「エルザ」
「なに」
「お前が言ってくれた」
「そうね」
「私が言えなかったものを」
「そうよ」
マティアスは少し考えた。
言葉の形を、もう一度確かめた。
何度確かめても、同じ言葉だった。
「一緒にいたい」と、マティアスは言った。
エルザが止まった。
「……今言えたじゃない」
「お前が先に言ったから」
「それでも言えたわよ」
「そうかもしれない」
エルザはしばらくマティアスを見ていた。
それから、テーブルの上の手を、少し動かした。
マティアスの手に、触れた。
「何年分言えた?」
「一年分くらいかもしれない」
「まだあるの」
「まだある」
「全部言い終わるのに、何年かかるかしら」
「分からない」
「じゃあ」とエルザは言った。
「なんだ」
「ずっとそばにいてよ」
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが、テーブルの上の手を、今度は自分から握った。
力を込めすぎないように。
でも、確かに。
去年より、確かに。
エルザは何も言わなかった。
ただ、笑っていた。
声を出さずに、笑っていた。
春の夜風が、また吹いた。
白い花の香りが、二人を包んだ。
しばらくして、カイルが戻ってきた。
台所を見た。
二人がテーブルに座っていた。
手が、繋がれていた。
カイルは一秒だけ見た。
それから、「オッホン」と言った。
「何が言いたい」とマティアスが言った。
「何も」とカイルは言った。
「三回鳴いた」
「気のせいだ」
カイルは棚からカップを取った。
お茶を自分で淹れた。
椅子を引いた。
座った。
三人で、しばらく黙ってお茶を飲んだ。
窓の外で、春の夜が続いていた。
「カイル」とマティアスが言った。
「なんだ」
「今朝の話を、窓の外から聞かれていた」
カイルは少し止まった。
それからエルザを見た。
エルザは澄ました顔でお茶を飲んでいた。
カイルはマティアスを見た。
マティアスは前を向いていた。
「……どのくらい聞いていた」とカイルは言った。
「ほとんど全部だそうだ」
カイルはしばらく黙った。
それから、深くため息をついた。
「エルザ」
「なんですか」
「聞いたことは、胸にしまっておいてくれ」
「もうしまいました」
「そうか」
「カイルさんが一人で夜明け前の台所にいた話も、一緒にしまいました」
カイルがまた止まった。
「……それも聞いていたのか」
「早起きなんです、私」
カイルはしばらく黙った。
それから、また深くため息をついた。
今度は、最初のため息より少し短かった。
「……ありがとう」と、カイルは静かに言った。
エルザは笑った。
「どういたしまして」
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが——カイルを一度だけ、横目で見た。
カイルも横目で見た。
何も言わなかった。
それで十分だった。
十五年来、それで十分だった。
その夜遅く、マティアスは引き出しに手紙を書いた。
誰にも送らない手紙だった。
一行だけ書いた。
言えた。
折って、引き出しに入れた。
閉めた。
窓の外では、春の夜が続いていた。
白い花が、夜風に揺れていた。
鎧は、今夜も着ていた。
ただ——隙間から入ってくるものが、今夜は今まで一番温かかった。
言えなかった言葉が、言えた夜だった。
それは、今まで一度もなかったことだった。
つづく




