第八話「カイルの話と、鎧を持たない男の話」
翌朝、目が覚めた時、天井が木だった。
節目のある、古い木の天井だった。
四度目に見る天井だった。
もう、見慣れていた。
マティアスはしばらく天井を見ていた。
隣の部屋から、音がした。
台所で誰かが動いている音だった。
エルザではなかった。
足音が違った。
もう少し重い。
マティアスは起き上がった。
台所にいたのはカイルだった。
鍋の前に立っていた。
軍服ではなく、外套を羽織ったままだった。
鍋の中を、少し困った顔でかき混ぜていた。
マティアスは戸口に立った。
「何をしている」
カイルが振り返った。
少し驚いた顔をした。珍しかった。
「……朝食を作ろうとしている」
「作れるのか」
「作れると思っていたが」
「思っていたが、何だ」
「思っていただけだった」
マティアスは鍋を覗いた。
何かが煮えていた。何かは分からなかった。
「何を作ろうとした」
「スープだ」
「スープに見えない」
「見えないが、スープのつもりだ」
マティアスは少し考えた。
それから、カイルの隣に立った。
鍋を引き取った。
「座っていろ」
「お前が作れるのか」
「お前よりはできる」
カイルは少し間を置いた。
それから椅子に座った。
足を組んだ。袖を直した。舞台の上の俳優のように様になっていたが、今朝だけは少し、それが崩れていた。
マティアスは鍋の中を確認した。
野菜が入っていた。水が多すぎた。塩が足りなかった。
「いつから台所にいた」
「夜明け前から」
「眠れなかったのか」
カイルは少し間を置いた。
「そうかもしれない」
マティアスは鍋をかき混ぜながら、カイルを見た。
カイルは窓の外を見ていた。
春の朝が来ていた。
白い花が、朝の光の中で揺れていた。
「カイル」
「なんだ」
「お前は眠れない時があるのか」
「人間だからな」
「そういう意味ではない」
カイルは少し黙った。
窓の外を見たままだった。
「たまにある」
「何かあった時か」
「そうだな」
「昨夜は何かあったか」
カイルはしばらく答えなかった。
鍋が、静かに煮えていた。
「……懐かしかった」と、カイルは言った。
「何がだ」
「昨夜の食卓が」
マティアスは鍋をかき混ぜ続けた。
「懐かしいとは、どういう意味だ」
カイルは少し考えた。
「私の家は、子供の頃から食卓が静かだった。フォン・シュトラール家というのは、そういう家だった。格式があって、作法があって、誰も余計なことを喋らない食卓だった」
「そうか」
「嫌いではなかった。それが当たり前だったから」
「だが」
「昨夜は違った」とカイルは言った。「犬がうろうろして、フワンがにやにやして、エルザが笑って、お前がシチューを食べていた。それだけのことが、妙に」
カイルは少し止まった。
「……妙に、温かかった」
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが、スープに塩を足した。
少し考えて、もう少し足した。
「カイル」
「なんだ」
「お前にはいないのか」
「何が」
「引き出しに手紙を送る相手が」
カイルは少し間を置いた。
それから、短く笑った。
声を出さない笑い方だった。
「いない」
「そうか」
「今のところは、だ」
「今のところ、とはどういう意味だ」
「将来のことは分からないという意味だ」
マティアスはスープをかき混ぜながら、少し考えた。
「お前のような男に手紙を送る人間が現れたとしたら、相当な胆力の持ち主だ」
カイルが少し止まった。
「……それは褒めているのか」
「事実だ」
「事実として褒めているのか、事実として貶しているのか」
「どちらとも取れる」
カイルはしばらく黙った。
それから、また声を出さない笑い方で笑った。
「お前、少し意地が悪くなったな」
「そうかもしれない」
「誰かの影響か」
「さあ」
「エルザの影響だろう」
「さあ」
カイルはまた笑った。
今度は少し声が出た。
マティアスは、それを聞きながら、スープに野菜を足した。
エルザが起きてきたのは、それから少し後だった。
台所を見た。
マティアスが鍋の前にいた。
カイルが椅子に座っていた。
「……何があったの」
「カイルがスープを作ろうとしていた」とマティアスは言った。
「作れなかった」とカイルは言った。
エルザはしばらく二人を見た。
それから、くすっと笑った。
「カイルさん、料理できないの?」
「できると思っていた」
「思っていただけだったのね」
「そういうことになる」
エルザはマティアスの隣に来た。鍋を覗いた。
「これ、マティアスが作ったの?」
「そうだ」
「作れるのね」
「カイルよりは」
「それは基準が低すぎるわよ」
カイルが「オッホン」と言った。
エルザが笑った。
マティアスは、ごく小さく、口の端を上げた。
フワンが起きてきて、四人で朝食を食べた。
スープは旨かった。
「マティアスさん、料理できるんですね」とフワンが言った。
「少しだけだ」
「どこで覚えたんですか」
「一人でいることが多かったからだ」
フワンは少し考えた。
「一人の時間が長かったんですね」
「そうだな」
「今は?」
マティアスは少し間を置いた。
「今は、そうでもない」
フワンがにやにやした。
カイルが「オッホン」と言った。
エルザが笑った。
フワンがまたにやにやした。
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが、スープをもう一口飲んだ。
旨かった。
午前中、カイルとマティアスで村を歩いた。
エルザとフワンは畑の準備があると言って、別の方向へ行った。
二人だけで歩くのは、三日間の旅道以来だった。
小川沿いを歩いた。
水が春の光を受けて、きらきらと光っていた。
「マティアス」
「なんだ」
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「エルザに、まだ言えていない言葉があると言っていたな」
「そうだ」
「何年分あるんだ」
マティアスは少し考えた。
「数えていない」
「一つだけ教えろ」
「なぜ」
「友人として聞きたい」
マティアスはしばらく黙った。
小川の水が、光を受けて揺れていた。
「……一緒にいたい、という言葉が、まだ言えていない」
カイルは何も言わなかった。
少し歩いた。
小川が、また光った。
「それだけか」とカイルは言った。
「それだけではない。ただ、一番言いたくて、一番言えていないものが、それだ」
「なぜ言えない」
「言ったら——」
マティアスは少し止まった。
「言ったら、どうなるか分からないからだ」
「何がどうなると思っている」
「分からない。ただ、言葉にした瞬間に、何かが変わる気がする」
「変わることが怖いのか」
「怖い、という言葉が正確かどうか分からない。ただ」
「ただ?」
マティアスはしばらく黙った。
「変わった後の世界が、今より良いものかどうか、確信が持てない」
カイルは小川を見た。
水が流れていた。
「マティアス」
「なんだ」
「お前は士官学校の時、羅針盤を逆に読んで三時間歩いた」
「それを今言うか」
「聞け」
マティアスは黙った。
「その後、正しい方向に歩き直した。遅くなったが、着いた」
「そうだな」
「今も同じだ」とカイルは言った。「言葉にした後の世界が今より良いかどうか、確信が持てないのは当然だ。行ったことがない場所に確信は持てない」
「そうだな」
「ただ」
「ただ?」
カイルは小川から目を離して、マティアスを見た。
「お前が今いる場所は、三年前のお前がいた場所より、良い場所だろう」
マティアスは返事をしなかった。
「引き出しに手紙があって、冬に雪道を三日半かけてきて、四人で食卓を囲んで、スープを作れるようになった」
「スープは元々作れた」
「昨日より旨かった」
「それは」
「材料が同じでも、作る理由が変わると旨くなることがある」とカイルは言った。「私の見解だ」
マティアスはしばらく黙った。
小川の水が、流れ続けていた。
「……そうかもしれない」
「そういうことだ」
カイルは歩き始めた。
マティアスも歩いた。
二人で、春の小川沿いを歩いた。
しばらく、黙って歩いた。
「カイル」
「なんだ」
「今朝の話だが」
「台所の話か」
「そうだ。お前も、いつか、食卓が賑やかになるかもしれない」
カイルは少し間を置いた。
「そうかもしれない」
「その時は教えろ」
「何のために」
「隣を歩く」
カイルが止まった。
マティアスも止まった。
二人で、小川を見た。
水が流れていた。
春の光が、水面に踊っていた。
「……お前も意地が悪くなったが」とカイルは言った。
「そうかもしれない」
「それから」
「なんだ」
「羅針盤の話を使うのが上手くなった」
「お前が使うから覚えた」
カイルはしばらく黙った。
それから、声を出さない笑い方で笑った。
今日は少し、長く笑った。
マティアスも、ごく小さく、口の端を上げた。
春の風が来た。
白い花の香りが、二人を包んだ。
名前を知らない花の香りが。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——今日の隙間からは、春の風が通り抜けていた。
温かかった。
そして、少し先に、言いたい言葉があった。
まだ言えていない言葉が。
でも、今日はそれでいい。
言える日が、来る。
カイルが隣にいた。
それだけで、今日は十分だった。
つづく




