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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Theater
第一章 牢屋と、壁と、名前を知らない花

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第十八話「最後の朝と、言えた言葉」


十日目の朝が来た。

目が覚めた時、天井が木だった。

節目のある、古い木の天井だった。

三度目に見る天井だった。

最後の朝だった。

マティアスはしばらく天井を見ていた。

それから起き上がった。

窓を開けた。

夜明け前の空だった。

空がまだ決まっていない時間だった。

雲が少しあった。

今日の夕日は、複雑な色になるかもしれなかった。

見られない夕日だった。

また、見られない夕日だった。

マティアスはその空を見ながら、思った。

今日、言う。

昨夜も同じことを思った。

七日間、毎晩同じことを思った。

思うたびに、言葉の形を確かめた。

何度確かめても、言葉は同じだった。

変わらなかった。

だから、今日、言う。


朝食は、パンとスープだった。

シチューではなかった。

エルザが、少し眠そうな顔でスープをかき混ぜていた。

「今日はシチューじゃないのか」

「昨夜、作ろうとしたんだけど」

「なんだ」

「眠れなくて、途中で止めた」

マティアスはエルザを見た。

「なぜ眠れなかった」

エルザはスープをかき混ぜ続けた。

「……明日からまた手紙だけになるから」

マティアスは何も言わなかった。

フワンがテーブルに来た。

「おはようございます」

「ああ」

「今日、帰るんですよね」

「そうだ」

フワンはスープを受け取りながら、マティアスを見た。

にやにやしていなかった。

珍しかった。

「マティアスさん」

「なんだ」

「エルザのこと、よろしくお願いします」

マティアスは少し間を置いた。

「……どういう意味だ」

「どういう意味でもいいです」とフワンは言った。「ただ、よろしくお願いします」

それだけ言って、スープを食べ始めた。

エルザが、フワンを見た。

フワンは前を向いて食べていた。

マティアスも、スープを食べた。

温かかった。


午前中、三人で村を歩いた。

白い花が、まだ咲いていた。

春の終わりに近づいていたが、まだ咲いていた。

「もうすぐ散るわね」とエルザが言った。

「そうか」

「来年また咲くけど」

「ああ」

「来年も来る?」

「ああ」

エルザは花を一輪、摘んだ。

マティアスに差し出した。

「持っていって」

マティアスは花を受け取った。

白くて、小さい花だった。

名前を知らない花だった。

「ありがとう」

エルザは少し驚いた顔をした。

「……ありがとうって、初めて言ったわね」

「そうか」

「そうよ。いつも、ああ、とか、そうか、とか、それだけなのに」

「そうかもしれない」

「なんで今日は言えたの」

マティアスは花を見た。

白くて、小さくて、名前を知らない花だった。

「……今日は、言える日だから」

エルザはしばらくマティアスを見た。

それから、小さく笑った。

「そう」

「ああ」

フワンが、少し離れたところで犬と遊んでいた。

意図的に離れているらしかった。

賢い子だとマティアスは思った。

「ねえ」とエルザが言った。

「なんだ」

「七日後に言うって言ったわね」

「ああ」

「今日が七日目よ」

「分かっている」

「言えそう?」

マティアスは花を見た。

それからエルザを見た。

春の光の中で、栗色の髪が揺れていた。

大きな目が、まっすぐにこちらを見ていた。

七日間、言葉の形を確かめてきた。

何度確かめても、同じ言葉だった。

「言う」とマティアスは言った。

「うん」

「今から言う」

「うん」

マティアスは少し間を置いた。

鎧は、今日も着ていた。

隙間は、今まで一番広かった。

名前を知らない何かが、その隙間を満たしていた。

もう名前が分かっていた。

「お前のことが好きだ」

エルザは何も言わなかった。

花が風に揺れた。

鳥が鳴いた。

遠くでフワンが犬と何か話していた。

エルザは、まっすぐにマティアスを見ていた。

大きな目が、少し潤んでいた。

「……言えたじゃない」と、エルザは小さく言った。

「ああ」

「七日かかったわね」

「そうだな」

「でも、言えた」

「ああ」

エルザはまた少し黙った。

それから、ゆっくりと笑った。

泣きながら笑った。

声を出さずに笑った。

「私も」とエルザは言った。

「なんだ」

「私も、好きよ」

「そうか」

「そうよ」

「……そうか」

「もっと他に言うことないの」

「ある」

「なに」

「よかった」

エルザが笑った。

今度は声に出して笑った。

泣きながら笑った。

「なにそれ」

「事実だ」

「よかった、って」

「よかったんだ」

エルザはしばらく笑っていた。

笑いながら、目の端を拭いた。

マティアスはそれを見ていた。

それから、エルザの手を取った。

今度は、自分から。

昨日より、強く。

エルザは笑ったまま、握り返した。

「鎧、今日は脱げた?」

「……少し」

「少しだけ?」

「……かなり」

エルザがまた笑った。

白い花が、風に揺れていた。

名前を知らない花が。

春の光が、二人を照らしていた。

遠くで、フワンが叫んだ。

「エルザ!!マティアスさん!!手を繋いでる!!」

「見るな」とエルザが言った。

「すごい!!ついに!!」

「黙りなさい」

「やったあ!!」

「フワン!!」

犬が八匹、フワンの周りを走り回った。

ルドルフが、丘を上がってきた。

マティアスの足に頭を押しつけた。

マティアスはルドルフの頭を撫でた。

エルザの手を、まだ握ったまま。

「帰りたくないでしょ」とエルザが言った。

「……そうかもしれない」

「正直ね」

「嘘はつかない」

「知ってる」

二人はしばらく、丘の上に立っていた。

白い花の中に。

春の光の中に。

「また来る」とマティアスは言った。

「知ってる」

「来年も」

「知ってる」

「再来年も」

「知ってるわよ」とエルザは言った。笑いながら。「全部、知ってる」

「そうか」

「そうよ」

風が吹いた。

花の香りが、二人を包んだ。

名前を知らない花の香りが。

でも今日から、この花には名前があった。

マティアスの中では。

言葉にはならない名前だったが、確かにあった。

鎧は、今日もそこにあった。

でも今日だけは。

重さを感じなかった。

隙間から光が差し込んでいるのではなく、光の中に立っていた。

それは、今まで一度もなかったことだった。


出発の時、フワンが見送りに来た。

犬が八匹、全員来た。

「マティアスさん」

「なんだ」

「よかったです」

「そうか」

「本当によかったです」

「……ありがとう」

フワンは少し驚いた。

それからにやにやした。

「今日は二回言えましたね、ありがとう」

「そうか」

「成長してますよ」

「お前に言われたくない」

フワンが笑った。

ルドルフが、また足に頭を押しつけた。

マティアスは撫でた。

「またな」

ルドルフは尻尾を振った。

マティアスは馬に乗った。

エルザが見上げていた。

目が、まだ少し赤かった。

「マティアス」

五度目だった。

呼ばれるたびに、隙間から何かが入ってきた。

今日は、入ってくるものではなく、満ちているものがあった。

「ああ」

「またね」

「ああ」

「来年の春、待ってる」

「ああ」

「言いたいことがまだあったら、来た時に言って」

「ある」

「また?」

「まだある」

エルザが笑った。

「全部言い終わるのに、何年かかるの」

マティアスは少し考えた。

「……分からない」

「じゃあ、毎年来ないといけないわね」

「そうなるな」

「それでいいわよ」とエルザは言った。

「ああ」

馬を向けた。

歩き始めた。

振り返らなかった。

振り返ったら、また帰れなくなる気がした。

小川沿いの道を、南へ向かった。

しばらく行ったところで、後ろから声がした。

「来年も待ってるから!」

マティアスは馬を止めなかった。

右手が、ほんの少しだけ持ち上がった。

それだけだった。

それで十分だった。


帰り道、三日間。

初日は晴れていた。

二日目も晴れていた。

三日目の夕方、雲が出た。

夕日が複雑な色になった。

橙色が、赤に変わった。

赤が、紫に変わった。

紫が、青に混じった。

マティアスは馬を止めた。

しばらく、その夕日を見た。

エルザが好きな夕日だった。

来年、また一緒に見よう、とマティアスは思った。

再来年も。

その次も。

言いたいことが、まだあった。

でも、焦らなくていい。

毎年、少しずつ言えばいい。

全部言い終わるまで、何年かかるか分からなかった。

でも、それでいい。

鎧は、今日も着ていた。

でも今日は、着ていることに気づかないくらい、軽かった。

夕日が、少しずつ沈んでいった。

名前を知らない花の香りが、どこかから漂ってきた気がした。

気のせいかもしれなかった。

でも今日は、気のせいだと思わないことにした。

馬を進めた。

本部へ向かった。

引き出しに、地図が一枚待っていた。

来年の春、また使う。

その次の年も。

ずっと、使い続ける。


第一章 完

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