第十七話「十日間の続きと、言えた言葉と、言えなかった言葉」
翌朝、目が覚めた時、天井が木だった。
節目のある、古い木の天井だった。
二度目に見る天井だった。
悪くなかった。
むしろ、良かった。
朝食は、パンと昨夜の残りのシチューだった。
フワンがすでに起きていた。
「おはようございます、マティアスさん」
「ああ」
「よく眠れましたか」
「ああ」
「ルドルフが今日は入り込みませんでしたか」
「入り込んだ」
「追い出しましたか」
「いや」
フワンはにやにやした。
「ルドルフ、本当にあなたのことが好きですね」
「そうらしい」
「ミミも昨日、あなたの足元をうろうろしてましたよ」
「気づいていた」
「なんで抱き上げなかったんですか、ミミ小さいから喜ぶのに」
「抱き上げ方が分からなかった」
フワンは少し驚いた顔をした。
それからにやにやした。
「今日教えますよ」
「善処する」
エルザが起きてきたのは、それから少し後だった。
髪がまだ整っていなかった。目が半分閉じていた。
テーブルに座って、マティアスを見た。
「……おはよう」
「ああ」
「来てたのね、やっぱり」
「昨日も今日も来ている」
「夢じゃなかったのね」
「なっていない」
エルザはパンを一口食べた。
それから、少し笑った。
寝起きの、ぼんやりした笑い方だった。
マティアスは、その笑い方がもう初めてではないことに気づいた。
二度目だった。
二度目なのに、また見たいと思った。
「何を見てるの」とエルザが言った。
「二度目だと思っていた」
「何が」
「その笑い方」
エルザは少し固まった。
それから、耳が赤くなった。
「……朝から勘弁してよ」
「昨日も同じことを言っていた」
「昨日も同じことをしたのよ」
「そうか」
「そうよ」
フワンが席を立った。
「畑を見てきます」
誰も止めなかった。
午前中、エルザと村を歩いた。
春の村は、秋とは違った。
あちこちに白い花が咲いていた。
小川の水が、雪解けで少し増えていた。
鳥の声が多かった。
「好きな季節はいつ」とエルザが聞いた。
「決めていなかった」
「今は?」
マティアスは少し考えた。
「春かもしれない」
「去年まではそうじゃなかったの?」
「去年まで、ここの春を知らなかった」
エルザはしばらく黙った。
それから、小さく笑った。
「来てよかったのね」
「そうだな」
「私も、来てくれてよかった」
「そうか」
「そうよ」
小川沿いを歩きながら、マティアスは思った。
十日間ある。
まだ九日残っている。
前回は十日があっという間だった。今回も、きっとあっという間だろう。
それが分かっているのに、何もできない。
何もしないわけではなかった。
ただ、言いたいことが、まだあった。
昨日、丘の上で言えた言葉と、言えなかった言葉があった。
言えた言葉は、手を繋いだまま、夕暮れまで丘の上にいた。
言えなかった言葉は、まだ胸の中にあった。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「昨日、言いたいことがあると言ってたでしょ」
「言った」
「全部、言えた?」
マティアスは少し間を置いた。
「言えなかったものが、まだある」
エルザは川を見ていた。
水が、春の光を受けてきらきらしていた。
「言えそう?」
「……分からない」
「急がなくていいわよ」
「そうか」
「でも」
エルザはマティアスを見た。
「十日しかないから」
「分かっている」
「九日になったわよ、もう」
「分かっている」
「八日になる前に、言えるといいわね」
「善処する」
エルザがくすっと笑った。
「善処する、ってよく言うわね」
「言える保証のないことには、それしか言えない」
「正直ね」
「嘘はつかない」
「知ってる」
二人で川沿いを歩いた。
白い花が、川の両側に咲いていた。
名前を知らない花が。
三日目に、雨が降った。
去年と同じだった。
家の中で、二人でテーブルに座った。
フワンは犬小屋の修理をすると言って出ていった。雨の中を。
「フワンは雨でも外に出るのか」
「犬が気になるから」
「そうか」
「犬のためなら何でもするのよ、あの子は」
「それは、犬に懐かれる理由だな」
エルザが笑った。
雨の音が窓を叩いていた。
マティアスは紅茶を飲んでいた。エルザが淹れてくれた紅茶だった。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「去年の雨の日、何を書いてたの、報告書以外に」
「報告書しか書いていなかった」
「本当に?」
「ああ」
「手紙は?」
「雨の日には書いていなかった」
「なんで」
「書けなかった」
エルザは少し考えた。
「書けないことがあったの?」
「あった」
「どんなことが」
マティアスは紅茶を一口飲んだ。
「言いたいことは言葉になるが、書きたいことは言葉にならない場合がある」
エルザは少し黙った。
「……それ、どう違うの」
「言いたいことは、相手に届けるものだ。書きたいことは、自分の中にあるものだ。自分の中にあるものを言葉にすると、形が変わる気がした」
エルザはしばらくマティアスを見ていた。
それから、ゆっくりと言った。
「それって——」
「なんだ」
「私のことを書きたかったってこと?」
マティアスは紅茶を見た。
湯気が立っていた。
「……そうかもしれない」
エルザは何も言わなかった。
雨の音だけがしていた。
しばらくして、エルザが言った。
「私も、そういう時があるわよ」
「そうか」
「あなたへの手紙を書く時、書きたいことと、書ける言葉が違う時がある」
「どうするんだ」
「書ける言葉を書く。書きたいことは、会った時に言う」
「今まで言えたか」
エルザは少し考えた。
「……半分くらいかな」
「残りの半分は」
「まだ言えてない」
マティアスはエルザを見た。
エルザも、マティアスを見た。
「残りの半分、いつか言えるか」
エルザは少し笑った。
「あなたが来てくれれば」
「来る」
「毎年?」
「ああ」
「再来年も?」
「ああ」
「その次も?」
「ああ」
エルザはしばらく黙った。
それから、テーブルの上に手を置いた。
マティアスの手の、すぐ隣に。
触れるか触れないかの距離に。
マティアスはその手を見た。
昨日、丘の上で握った手だった。
温かかった手だった。
マティアスは自分の手を、少しだけ動かした。
触れた。
今度は手袋をしていなかった。
温かかった。
昨日より、温かかった気がした。
「言えなかった言葉」とエルザが静かに言った。
「なんだ」
「まだ言えない?」
マティアスは少し考えた。
雨の音がしていた。
花の香りは、雨のせいで少し薄かった。
でも、確かにあった。
「もう少し待ってくれ」
「どのくらい」
「……七日」
「七日後、言えるの?」
「善処する」
エルザが笑った。
「また善処する、って言った」
「言える保証がない」
「でも言おうとしてるのね」
「……ああ」
エルザはマティアスの手を、今度は自分から、少し強く握った。
「待つわよ」
「ああ」
「七日、待つ」
「ああ」
雨が続いていた。
窓の外で、フワンが犬小屋に何か板を打ちつける音がした。
雨の中で、それでもフワンは作業を続けていた。
マティアスはその音を聞きながら、思った。
七日後に、言う。
言える保証はなかった。
でも、言う。
鎧の隙間が、また少し広くなった気がした。
名前を知らない何かが、その隙間を、少しずつ満たしていた。
もうすぐ、名前が分かる気がした。
七日目の夜、フワンが言った。
「明後日、帰るんですよね、マティアスさん」
「そうだ」
「残念ですね」
「そうかもしれない」
「エルザ、最近ずっと顔が赤いですよ」
「フワン」とエルザが言った。
「事実ですよ」
「黙りなさい」
「でも事実——」
「黙れ」
フワンは黙った。
でもにやにやは止まらなかった。
マティアスはシチューを食べながら、明後日のことを考えた。
帰る日だった。
あと二日だった。
言うと言った。
七日後に言うと、自分で決めた。
明後日が、七日目だった。
鎧は、今夜も着ていた。
隙間は、今まで一番広かった。
名前を知らない何かが、もうほとんど満ちていた。
明後日、言う。
言えるかどうか、まだ分からなかった。
でも——言う。
それだけは、分かっていた。
つづく




