第十六話「春と、花と、言いたいこと」
春になった。
雪が解けた。
土の匂いがした。
マティアスは三日前から準備をしていた。荷物は最小限にした。地図は引き出しから出して、懐に入れた。馬の準備は二日前に済ませた。
上官室のドアを叩いた。
「入れ」
入った。
上官はマティアスを見た。
一秒で全てを理解した顔をした。
「また東か」
「そうだ」
「何日だ」
「十日、もらえるか」
「前回と同じだな」
「そうだ」
上官はため息をついた。書類に何かを書いた。
「気をつけろ」
「ああ」
「今度は雨の中を走るなよ」
マティアスは少し止まった。
「……なぜ知っている」
「お前が帰ってきた時、馬が泥だらけだった」
「そうか」
「行ってこい」
「ああ」
部屋を出た。
今回は雨が降らなかった。
三日間、晴れていた。
迂回路は覚えていた。
木々の間を抜けて、細い道を進んで、国境を越えた。
東街道に出た。
小川沿いに北へ向かった。
一里。
二里。
村が見えた。
今回は、村の入り口にフワンはいなかった。
代わりに、犬が一匹いた。
ルドルフだった。
マティアスを見た瞬間、尻尾が激しく動いた。
「ああ」とマティアスは言った。
ルドルフは走り出した。
村の中へ向かって、全速力で走った。
マティアスは馬から下りた。
手綱を木に結んだ。
ルドルフの後を歩いた。
村の中は、秋とは少し違っていた。
あちこちに、白い花が咲いていた。
小さい花だった。
名前を知らない花だった。
エルザは丘の上にいた。
白い花の中に、立っていた。
栗色の髪が、春の風に揺れていた。
マティアスが近づく足音を聞いて、振り返った。
大きな目が、丸くなった。
それからゆっくりと、笑った。
「来た」と言った。
「ああ」とマティアスは言った。
「今回は何日かかったの」
「三日だ」
「雨は?」
「降らなかった」
「よかった」
二人で、しばらく村を見下ろした。
白い花が、村全体に咲いていた。
「これよ」とエルザが言った。
「名前を知らない花か」
「そう。毎年春になると咲くの。村の人たちも、誰も名前を知らない。でも毎年咲く」
マティアスはその花を見た。
小さくて、白くて、風に揺れていた。
「牢屋の窓から漂ってきた香りだ」
エルザが少し笑った。
「やっぱり同じ花ね」
「そうだな」
風が吹いた。
花の香りが、二人を包んだ。
しばらく、黙って、その香りの中にいた。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「手紙に、言いたいことがあると書いてたわね」
「ああ」
「春になったら言うって」
「そうだ」
エルザはマティアスを見た。
まっすぐに、見た。
「春になったわよ」
「そうだな」
「花も咲いた」
「ああ」
「だから」
風が止んだ。
花が、静かになった。
村の音が、遠くなった。
マティアスはエルザを見た。
栗色の髪が、春の光の中にあった。
大きな目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「お前の名前を、覚えている」
「知ってるわよ、エルザって呼んでるじゃない」
「そういう意味ではない」
エルザは少し黙った。
「じゃあ、どういう意味」
マティアスは少し間を置いた。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——今この瞬間、隙間が、今まで一番広く開いていた。
「牢屋の壁の向こうから、初めて声が聞こえた時から、ずっと覚えている」
エルザは何も言わなかった。
「名前を呼ばれるたびに、鎧の隙間から何かが入ってきた」
「何かって」
「まだ名前が分からない」
エルザがくすっと笑った。
「名前が分からないの、あなたが」
「そうだ」
「名前を知らない花みたいね」
マティアスは少し考えた。
「そうかもしれない」
「でも毎年咲くのよ、この花」
「知っている」
「名前がなくても、咲く」
「そうだな」
エルザはしばらくマティアスを見ていた。
それから、一歩近づいた。
もう一歩近づいた。
マティアスは動かなかった。
エルザが、マティアスの名前を呼んだ。
「マティアス」
四度目だった。
一度目は村外れで。二度目は広場で。三度目は秋の出発の日に。そして今日。
呼ばれるたびに、隙間から何かが入ってきた。
今日は、今まで一番大きな何かが入ってきた。
「言いたいことって、それだけ?」とエルザが言った。
「……それだけではない」
「じゃあ、続きは」
マティアスは少し考えた。
長い軍人生活の中で、言葉に詰まったことは、ほとんどなかった。
今日は、詰まった。
詰まったが——言った。
「引き出しの中に、お前からの手紙が九通ある」
「知ってるわよ、私が送ったから」
「全部、読み返したことがある」
「何回?」
「……数えていない」
エルザが笑った。
「数えてないってことは、何回も読んだのね」
「そうかもしれない」
「なんで読み返したの」
「声を思い出したかったからだ」
エルザは何も言わなかった。
風がまた吹いた。
花の香りが、また二人を包んだ。
「マティアス」とエルザが言った。
「なんだ」
「鎧、今日は少し脱いでみない?」
マティアスは少し考えた。
「脱ぎ方が分からない」
「じゃあ、私が手伝う」
「……どうやって」
エルザは笑った。
それから、マティアスの右手を、そっと取った。
手袋越しに、温かかった。
マティアスは動かなかった。
動けなかった、という方が正確だったかもしれない。
「これで少し、軽くなった?」とエルザが言った。
マティアスは少し考えた。
「……なったかもしれない」
「よかった」
二人は丘の上に立っていた。
白い花が、周りに咲いていた。
名前を知らない花が。
春の光が、村全体を照らしていた。
遠くで、フワンが犬と走っていた。
ルドルフが、丘の下で尻尾を振っていた。
マティアスはエルザの手を、握り返した。
力を込めすぎないように。
でも、確かに。
エルザは何も言わなかった。
ただ、笑っていた。
声を出さずに、笑っていた。
鎧は、まだそこにあった。
ただ——今日だけは。
その重さを、全く感じなかった。
名前を知らない花の香りの中で、春の光の中で、マティアスは思った。
来年も、ここに来よう。
来年も、この花が咲く頃に。
そして再来年も。
その次も。
言いたいことは、まだあった。
でも今日は、これで十分だった。
手の温かさが、全部を言っていた。
その夜、エルザがシチューを作った。
また旨かった。
また、今まで食べた中で一番旨かった。
「毎回一番旨いって言うのね」とエルザが言った。
「毎回、一番旨い」
「なんで?」
マティアスは少し考えた。
「お前が作るからだろう」
エルザの耳が赤くなった。
フワンがにやにやした。
ルドルフが尻尾を振った。
ミミが、小さな体で走り回った。
春の夜は、温かかった。
引き出しの中に、手紙が九通と、地図が一枚あった。
来年の春も、この地図を使う。
再来年も。
その次も。
鎧の隙間は、今夜が一番広かった。
名前を知らない何かが、その隙間から、静かに満ちていた。
名前は、まだ分からなかった。
でも——もうすぐ、分かる気がした。
つづく




