第三話「引き出しと、ヴァイス村への道」
拘留所を出ると、夕暮れだった。
複雑な色の空だった。橙色が赤に変わって、赤が紫に変わっていった。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「その馬、ヴェルタから来たの」
「そうだ」
「疲れてるでしょう」
「お前ほどではない」
エルザは笑った。
「帰りましょう」
「どこへ」
「ヴァイス村。フワンが待ってる」
マティアスは頷いた。
馬を進めた。
エルザを、前に乗せた。
「重いか」とエルザが聞いた。
「軽い」
「お世辞ね」
「事実だ」
王都を出る頃には、夜になっていた。
星が出ていた。
「マティアス」
「なんだ」
「さっきの言葉、もう一度言って」
「どの言葉だ」
「妻になってくれ、って」
マティアスは、少し間を置いた。
「もう返事はもらった」
「もう一度、聞きたいの」
マティアスは、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「私の妻になってくれ、エルザ」
「うん」
「軽い返事だな」
「もう三回目だもの」
「二回目だ」
「三回目よ、心の中でも数えてたから」
マティアスは、返事をしなかった。
しなかったが、手綱を持つ手に、少し力がこもった。
三日かけて、ヴァイス村に着いた。
村の入り口に、ルドルフがいた。
今度は、二人揃って帰ってきたことに、誰よりも早く気づいた。
尻尾が、激しく動いた。
「エルザ!」
フワンの声だった。
丘を、駆け下りてきた。
エルザが馬を降りるより早く、抱きつかれた。
「エルザ、本当にエルザ?」
「本当よ」
「もう、会えないかと思った」
「ごめんね」
フワンは、しばらく、声を殺して泣いた。
それから、マティアスを見た。
「マティアスさんが、連れて帰ってきてくれたの?」
「そうだ」
フワンは、マティアスを見て、それから、エルザとマティアスの、繋がれた手を見た。
にやにやした。
「ようやくですね」
「何がだ」とマティアスが言った。
「引き出し、いっぱいになったんでしょう」
マティアスは、答えなかった。
答えなかったが——口の端が、わずかに上がった。
村長が、丘の上まで出てきた。
「エルザ」
「村長さん」
「無事だったか」
「無事です」
村長は、マティアスを見た。
「お前さんが、連れ帰ってくれたのか」
「そうだ」
村長は、しばらく、マティアスを見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとう」
「礼はいい」
「いや」と村長は言った。「この村で、初めて、エルザを、本当に取り戻してくれた人間だ。礼は言わせてくれ」
マティアスは、それ以上、何も言わなかった。
白い花が、丘の上に咲いていた。
名前を知らない花だった。
今年も、去年より、少し多く咲いていた。
その夜、フワンが早めに寝た後、縁側で、マティアスとエルザが、並んで座った。
「ねえ」とエルザが言った。
「なんだ」
「結婚式、どうする」
「考えていなかった」
「考えてよ」
マティアスは、少し考えた。
「この村で、白い花が咲く頃に」
「春ね」
「そうだ」
「カイルさんと、アンナさんも呼ぶ?」
「呼ぶ」
「リゼットさんは」
「呼べるかどうか、分からない」
「呼びたいの?」
「世話になった」
エルザは、少し笑った。
「呼びましょう。手紙、書く?」
「書く」
「オットーさんも」
「呼ぶ」
「フワンは、絶対に呼ぶわね」
「当然だ」
エルザは、しばらく、夜空を見ていた。
「ねえ、マティアス」
「なんだ」
「引き出しの中身、これからも増える?」
「増える」
「毎日?」
「毎日、一緒にいれば、書く必要がなくなるかもしれない」
エルザは、それを聞いて、しばらく黙った。
それから、静かに笑った。
「それも、いいわね」
「そうか」
「でも」
「なんだ」
「たまには、書いてよ。近くにいても」
「分かった」
マティアスは、懐から、小さな紙を取り出した。
折り畳まれた便箋だった。
「今、書いたのか」とエルザが驚いた。
「港町で、書いた」
「読んでいい?」
「読め」
エルザは、開いた。
エルザ
今、お前に会いに行く。
何年分の言葉が言えるか、まだ分からない。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
鎧は、もう脱いだ。
これからは、隙間のない話を、正面から、お前にする。
マティアス
エルザは、それを読み終えて、しばらく、何も言わなかった。
それから、マティアスの肩に、頭を預けた。
「バカね」
「そうかもしれない」
「でも、嬉しい」
マティアスは、返事をしなかった。
しなかったが、エルザの肩を、そっと抱いた。
白い花の香りが、夜風に乗って、二人を包んだ。
名前を知らない花だった。
それでも、二人にとっては、もう、十分すぎるほど、意味のある花だった。
つづく




