第十三話「三日間の道と、小川と、ヴァイス村」
夜明け前に出発した。
空がまだ決まっていない時間だった。橙色になるか、灰色になるか、まだ分からない時間。
馬に荷物を括りつけて、門を出た。
見送る者はいなかった。
いつもそうだった。マティアスが動く時は、誰にも言わずに動く。それが習慣だった。今回も同じだった。
ただ、今回だけは——行き先が、いつもと違った。
一日目は、ひたすら東へ走った。
国境の迂回路に入ったのは、昼を過ぎた頃だった。
行商人の言っていた通り、細い道だった。木々が両側から迫っていて、馬がようやく通れるくらいの幅しかなかった。道とも言えないような道だった。
それでも、通れた。
通行の記録を取る者もいなかった。
誰もいなかった。
風と、鳥と、馬の足音だけがあった。
夜は森の中で野営した。
焚き火を起こした。
星が出ていた。
マティアスは星を見ながら、エルザが今頃何をしているか考えた。
夕食の時間はとっくに過ぎていた。もう眠っているかもしれない。
あるいは、手紙を書いているかもしれない。
顔が少し赤くなりながら、とフワンが書いていた。
マティアスはその一文を、三ヶ月前から時々思い出していた。
思い出すたびに、どうしようもない気持ちになった。
どうしようもない、というのは、不快ではなかった。ただ、処理の仕方が分からなかった。
鎧の中に、処理できないものが溜まっていく感覚だった。
焚き火が揺れた。
木が爆ぜた。
マティアスは目を閉じた。
二日目は、雨だった。
細い道が、泥になった。
馬の足が遅くなった。
それでも進んだ。
止まる理由がなかった。
雨の中を走りながら、マティアスはふと思った。
エルザは今頃、この雨を見ているだろうか。
雨の日の景色は、好きか嫌いか聞いていなかった。
夕日は好きだと知っている。雲の多い日の夕日が好きだと知っている。
雨の日については、知らない。
次に会ったら聞こう、とマティアスは思った。
思ってから、少し驚いた。
次に会ったら、という言葉が、また自然に出てきたことに。
今まさに、会いに行っているのに。
雨が強くなった。
馬が首を振った。
マティアスは馬の首を軽く叩いた。
「もう少しだ」
馬は何も言わなかった。
でも、少し速くなった気がした。
三日目の朝、雨が上がった。
空が洗われたように澄んでいた。
東街道に出た。
地図を確認した。
小川沿いに北へ二里。
馬を向けた。
小川は、すぐに見つかった。
細い川だった。水が透明だった。秋の光を受けて、きらきらと光っていた。
北へ進んだ。
一里。
二里。
村が見えた。
小さかった。
エルザの言った通り、本当に小さかった。石造りの家が十軒ほど、広場に井戸が一つ。それだけの村だった。
地図には載っていなかった。
でも、あった。
マティアスは村の入り口で馬を止めた。
どこに行けばいいか、分からなかった。
エルザの家を聞こうとした。
その必要はなかった。
村の入り口に、一人の少年が立っていたからだ。
十四歳くらいの、背の高い少年だった。栗色の髪だった。目が大きくて、今はその目が丸く見開かれていた。
少年はマティアスを見た。
マティアスも少年を見た。
少年が口を開いた。
「……もしかして、マティアスさんですか」
「そうだ」
少年は一瞬固まった。
それから、猛烈な勢いで走り出した。
村の中へ向かって、全速力で走った。
走りながら叫んだ。
「エルザ!!エルザ!!来た!!来たよ!!穴に落ちた人が来た!!」
マティアスはその後ろ姿を見た。
背が高いが、走り方がまだ子供だった。腕が大きく振れていた。
どこからか、犬が一匹走ってきて、フワンの後を追いかけた。
それを見て、別の犬が走ってきた。
また別の犬が来た。
気がつくと、少年の後ろに犬が五匹ついていた。
マティアスは馬から下りた。
手綱を木に結んだ。
村の中へ歩いた。
フワンの叫び声が、まだ聞こえていた。
犬の足音が、あちこちから聞こえていた。
それから——
「え、ちょっと、フワン、急に言わないで——」
という声が聞こえた。
知っている声だった。
三日間、ずっと思い出していた声だった。
壁越しに三日間聞いた声だった。
マティアスは歩みを止めなかった。
角を曲がった。
広場に出た。
そこに、エルザがいた。
栗色の髪が、秋の光の中で輝いていた。
大きな目が、マティアスを見た。
丸く、見開かれた。
「……マティアス」
名前を呼んだ。
顔を見て、声に出して、呼んだ。
あの朝と同じだった。
村外れではなく、広場だった。
馬はいなかった。
でも、同じだった。
マティアスは、エルザの前まで歩いた。
止まった。
「来た」と言った。
エルザはしばらく、何も言わなかった。
大きな目が、まっすぐにこちらを見ていた。
それから、ゆっくりと、笑った。
「遅い」と言った。
「迂回路を使った。三日かかった」
「そういう意味じゃないわよ」
マティアスは少し考えた。
「……そうか」
「そうよ」
エルザは笑ったままだった。
マティアスも——今日は、笑った。
ほんの少しだけ、口の端が上がった。
それだけだったが。
エルザの目が、少し大きくなった。
「……笑った」
「そうか」
「初めて見た」
「そうかもしれない」
「似合うじゃない」
「そうか」
「もっと笑えばいいのに」
「善処する」
エルザがまた笑った。
今度は声に出して笑った。
広場に、笑い声が響いた。
犬が八匹、二人の周りをうろうろした。
フワンが、少し離れたところで、にやにやしていた。
秋の光が、村全体を照らしていた。
鎧は、今日も着ていた。
ただ——今この瞬間だけは。
その重さを、全く感じなかった。
その夜、エルザがシチューを作った。
温かかった。
今まで食べた中で、一番旨かった。
「旨いか?」とエルザが聞いた。
「ああ」とマティアスは言った。
「よかった」
フワンが、向かいでにやにやしながら食べていた。
犬が一匹、マティアスの足元に寄ってきた。
マティアスは犬を見た。
犬は尻尾を振った。
「懐かれてる」とエルザが言った。
「……そうか」
「犬に懐かれる人間は、たいてい悪い奴じゃないって、あなたが言ったのよ」
「言った」
「だから、あなたも悪い奴じゃないってことね」
マティアスは返事をしなかった。
しなかったが——犬の頭を、一度だけ、軽く撫でた。
犬は喜んだ。
尻尾がさらに速く動いた。
エルザが笑った。
フワンが笑った。
マティアスは、また口の端が少し上がった。
窓の外では、秋の夜が静かに続いていた。
つづく




