第五話「兄弟という、名前のない関係」
二人は、しばらく、黙って座っていた。
窓の外は、夕暮れだった。
雲が多かった。
複雑な色の夕日になりそうだった。
「オッホン」とカイルが言った。
「何が言いたい」
「何も」
「また鳴いたな」
「今日は、気のせいではない」とカイルは言った。「少し、緊張している」
マティアスは、カイルを見た。
「お前が、緊張するとは」
「兄弟だと分かった日に、緊張しない人間がいるか」
「……そうかもしれない」
「お前は、緊張していないのか」
マティアスは、少し考えた。
「分からない」と言った。「感情の名前が、まだ分からない」
カイルは、しばらく、マティアスを見ていた。
それから、静かに笑った。
「それは、お前らしい答えだ」
「そうか」
「ああ」
夕日が、窓を赤く染めていた。
橙色が、赤に変わりつつあった。
「聞きたいことが、まだある」とマティアスは言った。
「なんだ」
「母は——今、どこにいる」
カイルは、少し間を置いた。
「分からない」と言った。「父は、名を聞かなかったと言っていた。ただ——」
「ただ」
「港で歌う女の話を、お前がしていただろう。名前のない歌を歌う、年配の女の話を」
マティアスは、動かなかった。
「イレーネ、と名乗っていた」
カイルは、しばらく黙っていた。
「同じ名だ」とカイルは静かに言った。「幕間で語られていた妃殿下の名も、イレーネだった」
マティアスは、窓の外を見た。
夕日が、少しずつ沈んでいった。
橙色が赤に、赤が紫に、紫が青に混じっていった。
「確かめる方法は」
「ない」とカイルは言った。「ただ、確かめなくても、分かっていることが、一つある」
「なんだ」
「あの女が、二つの揺り籠から、赤子を一人だけ連れて、名も告げずに去ったこと」とカイルは言った。「その理由が、憎しみでなかったことは、確かだ」
マティアスは、カイルを見た。
「守るためだ」とカイルは言った。「一人では守りきれないと分かっていて、それでも、両方を、それぞれの形で守ろうとした。そう考える方が、筋が通る」
マティアスは、しばらく、何も言わなかった。
それから、小さく、頷いた。
「エルザに、話すのか」とカイルが聞いた。
「話す」
「いつだ」
「次に会った時に」
「言えるか」
マティアスは、少し考えた。
「善処する」
カイルが、声を出して笑った。
「その言葉を聞くのは、何度目だ」
「数えていない」
「私は数えている」とカイルは言った。「お前が『善処する』と言った時は、だいたい、やる気がある時だ」
「それは、お前の言葉だ」
「お前から学んだ」
窓の外で、夕日が沈みきった。
夜が来た。
星が、一つ、二つと、出始めていた。
「カイル」
「なんだ」
「兄弟、というのは」マティアスは、少し間を置いた。「重いものか」
カイルは、しばらく考えた。
「軽くはない」と言った。「だが、お前と歩いてきた十五年の方が、私にとっては、もう十分に重い。血の話は、その重さに、少し名前がついただけだ」
マティアスは、押し花を、もう一度見た。
白くて、小さな花だった。
名前を知らない花だった。
「名前がついても」とマティアスは言った。「変わらないものが、あるということか」
「そうだ」
「……そうか」
鎧は、今夜も着ていた。
ただ——今夜の隙間からは、これまでとは違う何かが、静かに満ちていた。
兄、という言葉でも、弟、という言葉でもなかった。
まだ、名前のない何かだった。
名前がなくても、確かに、そこにあった。
星が、夜空に増えていった。
カイルは、しばらく、その星を見ていた。
「オッホン」
「何が言いたい」
「何も」とカイルは言った。「今日だけは、本当に、何も」
つづく




