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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第十四章 連れ去られたエルザと、青いドレスの日々

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第四話「厨房と、忍び込んだ理由」


雨の日だった。

庭に出られず、エルザは屋敷の中を歩いていた。

見張りは、いつもより離れた場所から見ていた。

雨音のせいか、廊下が静かだった。

厨房の近くを通りかかった時、扉が半分開いていた。

中から、湯気と、良い匂いがしていた。


数日前、覗こうとして止められた場所だった。

見張りを振り返った。

今日は、遠くにいた。

話し込んでいる相手がいるらしかった。

エルザは、迷わなかった。

扉の隙間から、中に入った。

厨房は、村の台所とは、まるで違う大きさだった。

鍋がいくつも並んでいた。

コック服の男が、忙しく手を動かしていた。

若い見習いが、野菜を刻んでいた。

「あの」

声をかけると、コックが振り返った。

包丁を持ったまま、固まった。

「お、お客様が、なぜここに」

「見てもいい」

「いえ、その、これは」

「邪魔はしないわ」

エルザは、鍋を覗き込んだ。

中で、何かが煮えていた。

シチューではなかった。

もっと複雑な匂いがした。

「これは何」

「……鴨の煮込みでございます」

「鴨」

「はい」

「食べたことないわ」

コックは、少し戸惑った顔をした。

それから、少しだけ、誇らしげな顔になった。

「よろしければ、味見をなさいますか」

「いいの」

「殿下には、内緒に願います」

小皿に少し取り分けられた。

エルザは、それを口にした。

知らない味だった。

村の料理より、複雑で、少し濃かった。

「美味しい」

「恐縮です」

「あなたの名前は」

「グスタフと申します」

「グスタフ、腕がいいのね」

グスタフは、照れたような顔をした。

村では見たことのない照れ方だった。

見習いの少女が、こちらをちらちら見ていた。

エルザが視線に気づくと、慌てて野菜に目を戻した。

「あなたは」

「……ミアです」

「何を切ってるの」

「人参です」

「見せて」

ミアは、恐る恐る、手元を見せた。

均一な太さに切られた人参だった。

「上手ね」

「ありがとうございます」

ミアの手が、少し早くなった。

褒められて、張り切っているのが分かった。

その時、廊下から足音がした。

グスタフの顔が、さっと強張った。

「お客様、こちらへ」

慌てて、勝手口の陰にエルザを隠した。

見張りが、扉から顔を覗かせた。

「エルザ様、こちらにおいでですか」

グスタフが、平静を装って答えた。

「いえ、こちらには」

見張りは、少し訝しんだ様子だったが、すぐに立ち去った。

足音が遠ざかった。

エルザは、陰から出た。

「ごめんなさい、庇わせてしまって」

「いえ……その」

グスタフは、言葉を選んでいるようだった。

「殿下に知られれば、私どもが叱られます」

「言わないわ」

「……ありがとうございます」

ミアが、小さな声で言った。

「エルザ様は」

「なに」

「変わってらっしゃいますね」

「変?」

「普通、貴族の方は、厨房になど、いらっしゃいません」

「私は貴族じゃないもの」

ミアは、それを聞いて、少し目を丸くした。

「では」

「ただの村娘よ」

グスタフとミアは、顔を見合わせた。

何か言いたそうにしていたが、言わなかった。

雨音が、まだ続いていた。

エルザは、鍋の中の鴨の煮込みを、もう一度見た。

「これ、作り方を教えてもらえる」

グスタフは、驚いた顔をした。

「エルザ様が、料理を」

「村では、いつも作っていたわ」

「……では、少しだけ」


その日、エルザは、玉ねぎの刻み方を教わった。

下手だった。

大きさが揃わなかった。

それでも、久しぶりに、手を動かすことが楽しかった。

村での日々を、少しだけ、思い出した。

部屋に戻る頃には、袖に、玉ねぎの匂いが染みついていた。

マルタが、それに気づいて、目を丸くした。

「エルザ様、これは」

「厨房に、少しお邪魔したの」

「まあ」

マルタは、驚きながらも、どこか楽しそうな顔をした。

「殿下には」

「内緒にしてくれる」

マルタは、少し迷ってから、頷いた。

「今回だけ、です」


窓の外で、雨が、まだ降っていた。

エルザは、袖に残った玉ねぎの匂いを、しばらく嗅いでいた。

知らない屋敷の中で、初めて、少しだけ、村にいる時のような気持ちになれた。

それだけで、十分だった。


つづく


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