第四話「厨房と、忍び込んだ理由」
雨の日だった。
庭に出られず、エルザは屋敷の中を歩いていた。
見張りは、いつもより離れた場所から見ていた。
雨音のせいか、廊下が静かだった。
厨房の近くを通りかかった時、扉が半分開いていた。
中から、湯気と、良い匂いがしていた。
数日前、覗こうとして止められた場所だった。
見張りを振り返った。
今日は、遠くにいた。
話し込んでいる相手がいるらしかった。
エルザは、迷わなかった。
扉の隙間から、中に入った。
厨房は、村の台所とは、まるで違う大きさだった。
鍋がいくつも並んでいた。
コック服の男が、忙しく手を動かしていた。
若い見習いが、野菜を刻んでいた。
「あの」
声をかけると、コックが振り返った。
包丁を持ったまま、固まった。
「お、お客様が、なぜここに」
「見てもいい」
「いえ、その、これは」
「邪魔はしないわ」
エルザは、鍋を覗き込んだ。
中で、何かが煮えていた。
シチューではなかった。
もっと複雑な匂いがした。
「これは何」
「……鴨の煮込みでございます」
「鴨」
「はい」
「食べたことないわ」
コックは、少し戸惑った顔をした。
それから、少しだけ、誇らしげな顔になった。
「よろしければ、味見をなさいますか」
「いいの」
「殿下には、内緒に願います」
小皿に少し取り分けられた。
エルザは、それを口にした。
知らない味だった。
村の料理より、複雑で、少し濃かった。
「美味しい」
「恐縮です」
「あなたの名前は」
「グスタフと申します」
「グスタフ、腕がいいのね」
グスタフは、照れたような顔をした。
村では見たことのない照れ方だった。
見習いの少女が、こちらをちらちら見ていた。
エルザが視線に気づくと、慌てて野菜に目を戻した。
「あなたは」
「……ミアです」
「何を切ってるの」
「人参です」
「見せて」
ミアは、恐る恐る、手元を見せた。
均一な太さに切られた人参だった。
「上手ね」
「ありがとうございます」
ミアの手が、少し早くなった。
褒められて、張り切っているのが分かった。
その時、廊下から足音がした。
グスタフの顔が、さっと強張った。
「お客様、こちらへ」
慌てて、勝手口の陰にエルザを隠した。
見張りが、扉から顔を覗かせた。
「エルザ様、こちらにおいでですか」
グスタフが、平静を装って答えた。
「いえ、こちらには」
見張りは、少し訝しんだ様子だったが、すぐに立ち去った。
足音が遠ざかった。
エルザは、陰から出た。
「ごめんなさい、庇わせてしまって」
「いえ……その」
グスタフは、言葉を選んでいるようだった。
「殿下に知られれば、私どもが叱られます」
「言わないわ」
「……ありがとうございます」
ミアが、小さな声で言った。
「エルザ様は」
「なに」
「変わってらっしゃいますね」
「変?」
「普通、貴族の方は、厨房になど、いらっしゃいません」
「私は貴族じゃないもの」
ミアは、それを聞いて、少し目を丸くした。
「では」
「ただの村娘よ」
グスタフとミアは、顔を見合わせた。
何か言いたそうにしていたが、言わなかった。
雨音が、まだ続いていた。
エルザは、鍋の中の鴨の煮込みを、もう一度見た。
「これ、作り方を教えてもらえる」
グスタフは、驚いた顔をした。
「エルザ様が、料理を」
「村では、いつも作っていたわ」
「……では、少しだけ」
その日、エルザは、玉ねぎの刻み方を教わった。
下手だった。
大きさが揃わなかった。
それでも、久しぶりに、手を動かすことが楽しかった。
村での日々を、少しだけ、思い出した。
部屋に戻る頃には、袖に、玉ねぎの匂いが染みついていた。
マルタが、それに気づいて、目を丸くした。
「エルザ様、これは」
「厨房に、少しお邪魔したの」
「まあ」
マルタは、驚きながらも、どこか楽しそうな顔をした。
「殿下には」
「内緒にしてくれる」
マルタは、少し迷ってから、頷いた。
「今回だけ、です」
窓の外で、雨が、まだ降っていた。
エルザは、袖に残った玉ねぎの匂いを、しばらく嗅いでいた。
知らない屋敷の中で、初めて、少しだけ、村にいる時のような気持ちになれた。
それだけで、十分だった。
つづく




