第三話「風鈴草と、噂話」
数日が経った。
エルザは、屋敷の暮らしに、少しずつ慣れ始めていた。
慣れることが、怖くもあった。
朝、マルタが着替えを手伝いに来た。
「今日はどちらのドレスに」
「マルタが選んで」
「よろしいのですか」
「私には分からないもの」
マルタは少し嬉しそうな顔をした。
薄緑のドレスを選んだ。
「これは」
「風鈴草の色に、似せております」
「わざと?」
「はい。庭師が、お気に召したと聞いたので」
エルザは驚いた。
「そんなことまで伝わるの」
「屋敷は狭いのです。噂は、すぐに回ります」
着替えながら、マルタが小声で言った。
「エルザ様」
「なに」
「使用人の間で、少し噂になっております」
「私のこと」
「はい」
「どんな噂」
マルタは、少し言いにくそうにした。
「殿下が、これほど熱心になられるのは、珍しいと」
「熱心、ね」
「普段は、もっと、あっさりしたお方なので」
エルザは鏡を見た。
薄緑のドレスを着た自分が映っていた。
村娘には見えない格好だった。
それでも、中身は変わっていない、と思いたかった。
「他には」
「他には」
「何か言われてる」
マルタは、少し迷ってから言った。
「身元が分からない方だから、と」
「分からない、か」
「村のことを、皆、詳しくは聞かされておりません」
「聞いても、答えられないわ。私も知らないもの」
「知らない、とは」
エルザは少し笑った。
「地図に載っていない村よ。私だって、王都のことなんて、行商人の話でしか知らなかった」
マルタはしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「不思議な村なのですね」
「不思議かどうかは、私には分からない。ただ、静かで、平和な村よ」
「羨ましいです」
その一言に、何か本音めいたものが混じっていた。
エルザは、それを聞き逃さなかった。
「マルタは、そうじゃなかったの」
マルタは、はっとした顔をした。
「……申し訳ありません、出過ぎたことを」
「謝らなくていいわ」
「失礼します」
マルタは、それ以上何も言わず、着替えの支度を終えて部屋を出て行った。
一人になったエルザは、窓の外を見た。
庭師が、また垣根を刈っていた。
声をかけようか迷って、やめた。
今日は、少し疲れていた。
昼過ぎ、廊下を歩いていると、また噂話が耳に入った。
使用人二人が、隅で話していた。
「殿下が、あんなに機嫌を損ねるところ、初めて見たわ」
「昨日のことでしょう。断られたって」
「よく断れるわね、あの方に」
「変わったお方なんじゃない、あの村娘」
エルザは、聞こえないふりをして通り過ぎた。
胸の奥が、少しだけ冷たくなった。
村娘、という呼び方は、事実だった。
それでも、そう呼ばれる度に、何かが引っかかった。
夕方、アルブレヒトが部屋に来た。
「庭を歩いていると聞いた」
「歩いてはいけませんでしたか」
「いや、構わない」
アルブレヒトは、窓の外の風鈴草を見た。
「その色のドレス、よく似合う」
「マルタが選びました」
「そうか」
少しの沈黙があった。
「エルザ」
「はい」
「使用人たちと、親しくしすぎない方がいい」
エルザは、アルブレヒトを見た。
「なぜですか」
「立場が、変わるかもしれない相手だ。情を移せば、いずれ困る」
「情を移すな、と」
「そうだ」
エルザは、少し間を置いてから言った。
「殿下は、誰にも情を移さずに、生きてこられたのですか」
アルブレヒトの表情が、わずかに動いた。
「……それは、別の話だ」
「同じことのように、聞こえます」
アルブレヒトは、それ以上答えなかった。
ただ、窓の外の風鈴草を、しばらく見ていた。
「今夜、食事を共にしないか」とアルブレヒトが言った。
「お断りします」
「毎回、断るのだな」
「毎回、誘われますので」
アルブレヒトは、小さく息を吐いた。
笑いに近い、しかし笑いきれない音だった。
「いつか、頷く日が来ると思うか」
「分かりません」
「正直だな」
「嘘をつく理由がありません」
アルブレヒトは、部屋を出て行った。
扉が閉まった後、エルザはしばらく、風鈴草を見ていた。
情を移すな、という言葉が、耳に残っていた。
マルタの顔を思い出した。
ヨナスの慌てた顔も、庭師の口元の緩みも。
今さら、それを消せる気がしなかった。
窓の外で、風が吹いた。
風鈴草が揺れた。
音はしなかった。
それでも、エルザには、何かが小さく鳴っている気がした。
つづく




