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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第十四章 連れ去られたエルザと、青いドレスの日々

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第三話「風鈴草と、噂話」


数日が経った。

エルザは、屋敷の暮らしに、少しずつ慣れ始めていた。

慣れることが、怖くもあった。


朝、マルタが着替えを手伝いに来た。

「今日はどちらのドレスに」

「マルタが選んで」

「よろしいのですか」

「私には分からないもの」

マルタは少し嬉しそうな顔をした。

薄緑のドレスを選んだ。

「これは」

「風鈴草の色に、似せております」

「わざと?」

「はい。庭師が、お気に召したと聞いたので」

エルザは驚いた。

「そんなことまで伝わるの」

「屋敷は狭いのです。噂は、すぐに回ります」

着替えながら、マルタが小声で言った。

「エルザ様」

「なに」

「使用人の間で、少し噂になっております」

「私のこと」

「はい」

「どんな噂」

マルタは、少し言いにくそうにした。

「殿下が、これほど熱心になられるのは、珍しいと」

「熱心、ね」

「普段は、もっと、あっさりしたお方なので」

エルザは鏡を見た。

薄緑のドレスを着た自分が映っていた。

村娘には見えない格好だった。

それでも、中身は変わっていない、と思いたかった。

「他には」

「他には」

「何か言われてる」

マルタは、少し迷ってから言った。

「身元が分からない方だから、と」

「分からない、か」

「村のことを、皆、詳しくは聞かされておりません」

「聞いても、答えられないわ。私も知らないもの」

「知らない、とは」

エルザは少し笑った。

「地図に載っていない村よ。私だって、王都のことなんて、行商人の話でしか知らなかった」

マルタはしばらく黙っていた。

それから、ぽつりと言った。

「不思議な村なのですね」

「不思議かどうかは、私には分からない。ただ、静かで、平和な村よ」

「羨ましいです」

その一言に、何か本音めいたものが混じっていた。

エルザは、それを聞き逃さなかった。

「マルタは、そうじゃなかったの」

マルタは、はっとした顔をした。

「……申し訳ありません、出過ぎたことを」

「謝らなくていいわ」

「失礼します」

マルタは、それ以上何も言わず、着替えの支度を終えて部屋を出て行った。

一人になったエルザは、窓の外を見た。

庭師が、また垣根を刈っていた。

声をかけようか迷って、やめた。

今日は、少し疲れていた。


昼過ぎ、廊下を歩いていると、また噂話が耳に入った。

使用人二人が、隅で話していた。

「殿下が、あんなに機嫌を損ねるところ、初めて見たわ」

「昨日のことでしょう。断られたって」

「よく断れるわね、あの方に」

「変わったお方なんじゃない、あの村娘」

エルザは、聞こえないふりをして通り過ぎた。

胸の奥が、少しだけ冷たくなった。

村娘、という呼び方は、事実だった。

それでも、そう呼ばれる度に、何かが引っかかった。


夕方、アルブレヒトが部屋に来た。

「庭を歩いていると聞いた」

「歩いてはいけませんでしたか」

「いや、構わない」

アルブレヒトは、窓の外の風鈴草を見た。

「その色のドレス、よく似合う」

「マルタが選びました」

「そうか」

少しの沈黙があった。

「エルザ」

「はい」

「使用人たちと、親しくしすぎない方がいい」

エルザは、アルブレヒトを見た。

「なぜですか」

「立場が、変わるかもしれない相手だ。情を移せば、いずれ困る」

「情を移すな、と」

「そうだ」

エルザは、少し間を置いてから言った。

「殿下は、誰にも情を移さずに、生きてこられたのですか」

アルブレヒトの表情が、わずかに動いた。

「……それは、別の話だ」

「同じことのように、聞こえます」

アルブレヒトは、それ以上答えなかった。

ただ、窓の外の風鈴草を、しばらく見ていた。

「今夜、食事を共にしないか」とアルブレヒトが言った。

「お断りします」

「毎回、断るのだな」

「毎回、誘われますので」

アルブレヒトは、小さく息を吐いた。

笑いに近い、しかし笑いきれない音だった。

「いつか、頷く日が来ると思うか」

「分かりません」

「正直だな」

「嘘をつく理由がありません」

アルブレヒトは、部屋を出て行った。

扉が閉まった後、エルザはしばらく、風鈴草を見ていた。

情を移すな、という言葉が、耳に残っていた。

マルタの顔を思い出した。

ヨナスの慌てた顔も、庭師の口元の緩みも。

今さら、それを消せる気がしなかった。


窓の外で、風が吹いた。

風鈴草が揺れた。

音はしなかった。

それでも、エルザには、何かが小さく鳴っている気がした。


つづく


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