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マティアス・クロイツァーその人。  作者: Kentarou Tou
第十四章 連れ去られたエルザと、青いドレスの日々

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第二話「庭と、名を知らない使用人たち」


翌朝、エルザは早くに目を覚ました。

村にいた頃の癖だった。

鶏が鳴く時間に、体が勝手に起きてしまう。

ここには鶏はいない。

それでも体は覚えていた。

寝台を降りて窓辺に立った。

朝の庭が見えた。

昨夜より、花がよく見えた。

見たことのない白い花の他に、薄紫の小さな花が、群れて咲いている一角があった。

名前は分からなかった。

知りたい、と思った。

扉を叩く音がした。

マルタだった。

「おはようございます」

「おはよう」

「よくお休みになれましたか」

エルザは少し考えた。

正直に答えるべきか迷った。

「あまり」

マルタは意外そうな顔をした。

「寝台が合いませんでしたか」

「合わなすぎたのよ」

マルタが小さく笑った。

初めて見る表情だった。

「お可笑しなことをおっしゃいますね」

「本当のことよ」


朝食は部屋に運ばれてきた。

パンと、見たことのない果物と、温かい飲み物があった。

「これは何」とエルザは果物を指した。

「オレンジです」

「食べたことないわ」

「剥き方をお教えします」

マルタが皮を剥いてみせた。

エルザは見よう見まねでやってみた。

うまくいかず、果汁が指の間から垂れた。

「下手ね、私」

「慣れです」

「マルタは慣れてるの」

「昔は、私も剥けませんでした」

それだけ言って、マルタは口をつぐんだ。

昔、という言葉に、何か引っかかるものがあった。

エルザはそれ以上聞かなかった。

聞いてはいけない気がした。


朝食の後、マルタが言った。

「お庭にお出になりますか」

「出ていいの」

「殿下から、お許しをいただいております」

「見張り付きでしょうけど」

マルタは答えず、ただ微笑んだ。

それが答えだった。

庭に出ると、風が違った。

村の風とは違う匂いがした。

土の匂いも違った。

手入れされすぎている土だった。

庭師が、垣根を刈っていた。

老人だった。

エルザに気づくと、深く頭を下げた。

「お邪魔でなければ、少し見ていてもいい」

庭師は驚いた顔をした。

「殿下の御客人が、そのようなことを」

「客人というより、囚われの身よ」

庭師は何も言わなかった。

言えない立場なのだと、エルザにも分かった。

それでも、しばらく庭師の仕事を眺めた。

垣根の切り方。

土のならし方。

村での畑仕事と、似ているようで違った。

「これは何の花」と、薄紫の一角を指した。

「風鈴草でございます」

「風鈴草」

「振ると、音がしそうな形をしているので」

「本当に音がするの」

「いたしません」

庭師が、初めて、口の端をわずかに緩めた。

エルザも笑った。


昼過ぎ、屋敷の中を少し歩いてみた。

見張りは離れた場所からついてきたが、咎めはしなかった。

廊下の途中で、若い使用人とすれ違った。

盆を運んでいた男だった。

「こんにちは」とエルザが声をかけると、男は盆を落としかけた。

「お、お客様が、私などに」

「気にしないで。名前は」

「ヨナスと申します」

「ヨナス。よろしくね」

ヨナスは慌てて頭を下げ、逃げるように去っていった。

その様子に、エルザは少し笑ってしまった。

村では、誰もそんな態度は取らなかった。

厨房の近くまで来ると、良い匂いがした。

覗こうとして、見張りに止められた。

「そちらへは」

「ちょっと見るだけよ」

「殿下のお許しがございません」

エルザは仕方なく引き下がった。

それでも、匂いだけは覚えておこうと思った。

村のシチューとは、違う匂いだった。


夕方、部屋に戻ると、マルタが待っていた。

「お楽しみでしたか」

「思ったより、悪くなかったわ」

「それは、良うございました」

「マルタ」

「はい」

「あなたも昔、こういう場所で暮らしていたの」

マルタの表情が、一瞬止まった。

それから、静かに首を振った。

「私のことは、いずれ」

「今は話せない」

「はい」

エルザはそれ以上聞かなかった。

言えないことがあるという感覚は、エルザ自身がよく知っているものだった。


窓の外で、日が沈んでいった。

風鈴草の一角が、夕日に染まっていた。

音はしなかった。

それでも、エルザには、どこか懐かしい静けさに感じられた。


つづく


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