第二話「庭と、名を知らない使用人たち」
翌朝、エルザは早くに目を覚ました。
村にいた頃の癖だった。
鶏が鳴く時間に、体が勝手に起きてしまう。
ここには鶏はいない。
それでも体は覚えていた。
寝台を降りて窓辺に立った。
朝の庭が見えた。
昨夜より、花がよく見えた。
見たことのない白い花の他に、薄紫の小さな花が、群れて咲いている一角があった。
名前は分からなかった。
知りたい、と思った。
扉を叩く音がした。
マルタだった。
「おはようございます」
「おはよう」
「よくお休みになれましたか」
エルザは少し考えた。
正直に答えるべきか迷った。
「あまり」
マルタは意外そうな顔をした。
「寝台が合いませんでしたか」
「合わなすぎたのよ」
マルタが小さく笑った。
初めて見る表情だった。
「お可笑しなことをおっしゃいますね」
「本当のことよ」
朝食は部屋に運ばれてきた。
パンと、見たことのない果物と、温かい飲み物があった。
「これは何」とエルザは果物を指した。
「オレンジです」
「食べたことないわ」
「剥き方をお教えします」
マルタが皮を剥いてみせた。
エルザは見よう見まねでやってみた。
うまくいかず、果汁が指の間から垂れた。
「下手ね、私」
「慣れです」
「マルタは慣れてるの」
「昔は、私も剥けませんでした」
それだけ言って、マルタは口をつぐんだ。
昔、という言葉に、何か引っかかるものがあった。
エルザはそれ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
朝食の後、マルタが言った。
「お庭にお出になりますか」
「出ていいの」
「殿下から、お許しをいただいております」
「見張り付きでしょうけど」
マルタは答えず、ただ微笑んだ。
それが答えだった。
庭に出ると、風が違った。
村の風とは違う匂いがした。
土の匂いも違った。
手入れされすぎている土だった。
庭師が、垣根を刈っていた。
老人だった。
エルザに気づくと、深く頭を下げた。
「お邪魔でなければ、少し見ていてもいい」
庭師は驚いた顔をした。
「殿下の御客人が、そのようなことを」
「客人というより、囚われの身よ」
庭師は何も言わなかった。
言えない立場なのだと、エルザにも分かった。
それでも、しばらく庭師の仕事を眺めた。
垣根の切り方。
土のならし方。
村での畑仕事と、似ているようで違った。
「これは何の花」と、薄紫の一角を指した。
「風鈴草でございます」
「風鈴草」
「振ると、音がしそうな形をしているので」
「本当に音がするの」
「いたしません」
庭師が、初めて、口の端をわずかに緩めた。
エルザも笑った。
昼過ぎ、屋敷の中を少し歩いてみた。
見張りは離れた場所からついてきたが、咎めはしなかった。
廊下の途中で、若い使用人とすれ違った。
盆を運んでいた男だった。
「こんにちは」とエルザが声をかけると、男は盆を落としかけた。
「お、お客様が、私などに」
「気にしないで。名前は」
「ヨナスと申します」
「ヨナス。よろしくね」
ヨナスは慌てて頭を下げ、逃げるように去っていった。
その様子に、エルザは少し笑ってしまった。
村では、誰もそんな態度は取らなかった。
厨房の近くまで来ると、良い匂いがした。
覗こうとして、見張りに止められた。
「そちらへは」
「ちょっと見るだけよ」
「殿下のお許しがございません」
エルザは仕方なく引き下がった。
それでも、匂いだけは覚えておこうと思った。
村のシチューとは、違う匂いだった。
夕方、部屋に戻ると、マルタが待っていた。
「お楽しみでしたか」
「思ったより、悪くなかったわ」
「それは、良うございました」
「マルタ」
「はい」
「あなたも昔、こういう場所で暮らしていたの」
マルタの表情が、一瞬止まった。
それから、静かに首を振った。
「私のことは、いずれ」
「今は話せない」
「はい」
エルザはそれ以上聞かなかった。
言えないことがあるという感覚は、エルザ自身がよく知っているものだった。
窓の外で、日が沈んでいった。
風鈴草の一角が、夕日に染まっていた。
音はしなかった。
それでも、エルザには、どこか懐かしい静けさに感じられた。
つづく




