第一話「馬車の窓と、知らない天井」
馬車に乗せられてから、どれくらい経ったか分からなかった。
村の外の道は初めて見るものばかりだった。
畑ではない土地。
木でできていない橋。
石で舗装された道。
エルザはその全てを窓の隙間から見ていた。
見るたびに行商人の話を思い出した。
「王都には馬車が何十台も走ってる」
「橋の下を船が通る」
話に聞いていたことが目の前にある。
それだけで少しだけ胸が高鳴った。
高鳴ったことに自分で戸惑った。
こんな時に、なぜ。
兵は無言だった。
話しかけても短い答えしか返さなかった。
エルザはそれ以上聞くのをやめた。
かわりに窓の外を見続けた。
夜になると宿場に泊まった。
兵に囲まれた部屋だった。
鍵はかかっていなかった。
外に見張りが立っていた。
布団は村のものより柔らかかった。
柔らかい布団の上でエルザは眠れなかった。
フワンの顔が浮かんだ。
村長の顔が浮かんだ。
ルドルフの鳴き声が耳の奥に残っていた。
それから、まだ咲いていない白い花の蕾のことを思った。
今年あの花が咲く頃、自分はどこにいるのだろう。
答えは出なかった。
出ないまま朝が来た。
三日目の昼、大きな門が見えた。
王都だった。
門の向こうに石造りの建物がいくつも並んでいた。
どれも村の家より、はるかに大きかった。
人の数も桁が違った。
エルザはその光景に、しばらく声を失った。
「これが」
呟いた声は誰にも届かなかった。
馬車は王都の中心を通らず外れの道を進んだ。
やがて高い塀に囲まれた屋敷の前で止まった。
アルブレヒトの屋敷だった。
村の家が何十軒も入りそうな広さだった。
門の前に使用人が並んで待っていた。
「殿下がお待ちです」と、先頭にいた執事らしき男が言った。
エルザは馬車を降りた。
足が少しふらついた。
三日間、まともに歩いていなかったせいだった。
屋敷の中に入ると天井の高さに驚いた。
村のどの家より高かった。
壁には見たことのない絵が飾られていた。
床は石ではなく磨かれた木だった。
歩くたびに音が響いた。
「お疲れでしょう」と案内する侍女が言った。
若い女だった。
エルザと、そう年が変わらないように見えた。
「お部屋にご案内します」
通された部屋は村の家全体より広かった。
寝台には天蓋がついていた。
窓には格子がなかった。
かわりに外に見張りが立っているのが見えた。
「何かご入用の際は鈴を鳴らしてください」と侍女は言った。
「あなたのお名前は」とエルザは聞いた。
侍女は少し驚いた顔をした。
「……マルタと申します」
「マルタ」
「はい」
「よろしくね」
マルタは、それ以上何と答えていいか分からないような顔をした。
それから小さく頭を下げて部屋を出て行った。
一人になるとエルザは寝台に座った。
柔らかすぎて落ち着かなかった。
窓の外を見た。
庭が見えた。
見たことのない白い花が咲いていた。
名前も知らない蔓性の花が、壁に沿って伸びていた。
村では見たことのない花ばかりだった。
薔薇は少し離れた一角にまとめて植えられていた。
夕方近く、扉が叩かれた。
返事をする前に開いた。
アルブレヒトだった。
旅装ではなく屋敷用の落ち着いた服を着ていた。
「着いたか」
「はい」
「疲れただろう」
「多少は」
アルブレヒトは部屋の中を見回した。
それからエルザを見た。
「気に入らないところがあれば言ってくれ」
「気に入るも何も」
エルザは少し間を置いた。
「私は望んで来たわけではありません」
アルブレヒトの表情は変わらなかった。
「分かっている」
「分かっていて」
「時間をかければ変わるものもある」
「変わらないものもあります」
アルブレヒトはそれを聞いて小さく笑った。
苛立った笑いではなかった。
むしろ面白がっているような笑いだった。
「今夜はゆっくり休め」
それだけ言ってアルブレヒトは部屋を出て行った。
扉が閉まった。
足音が遠ざかった。
エルザはしばらく閉まった扉を見ていた。
それから窓の外の庭を見た。
夕方の光の中で、見たことのない白い花が揺れていた。
名前を知っている花はほとんどなかった。
知らない花ばかりの庭でエルザはふと白い花のことを思い出した。
ここにはあの花は咲いていない。
当たり前のことなのに、それがやけに寂しく感じられた。
夜、マルタが夕食を運んできた。
見たことのない料理が並んでいた。
「これは何」とエルザが聞くと、マルタは一つ一つ丁寧に説明した。
説明を聞きながらエルザは少しずつ興味が湧いてくるのを感じた。
怖さと好奇心が同時にあった。
どちらが強いのか自分でもまだ分からなかった。
その夜、エルザは慣れない寝台の上で長く天井を見ていた。
知らない天井だった。
知らない街の、知らない屋敷の、知らない天井。
それでもいつか、この天井にも慣れる日が来るのだろうか。
慣れたくないという気持ちと、慣れてしまいそうな自分への戸惑いが同時にあった。
窓の外で風が吹いた。
名前を知らない花の香りが、かすかに部屋の中まで届いた。
知らない香りだった。
それでも香りだけは村の夜と少しだけ似ていた。
それだけが、その夜エルザにとっての救いだった。
つづく




